銀の月森

 世界には人とエルフの二つの種族が住んでいた。

 人は世界を治めエルフは世界を讃え、ともに大地に世界が創られし時より共に歴史を刻み続けてきた。しかしその歴史の多くは争いと混沌の歴史であり、絶望と悲哀の歴史でもあった。
 世界で最も広大な大陸――テュールの統治を巡る争いの歴史は、いくつもの国が生まれそして滅びを繰り返した混沌の時代から始まる。そんな混沌の中からやがて生まれた二つの強大な勢力は、やがて大陸全土を争いだけを繰り返す、果てのない暗黒の時代へと世界を導いていった。
 希望という名の光は途絶え、暗黒へと堕ちた大陸は、全てを焼き尽くす破壊と殺戮の日々にその大地を鮮血に染めていく。いつしか人は世界を絶望しエルフは世界を嘆き、ともに世界の終焉を望む呪いの言霊で世界を満たしていった。
 その呪詛のような言霊が神に届いたのか、突然全ての命を排除するかのように、血に染まった大地は幾度も激しく揺らぎ、天を裂く粛正の刃の様な光が世界に降り注いだ。争いで疲弊した大地に癒える事のないいくつもの大きな傷跡を刻まれて、自分達の犯した過ちにようやく気づいた時の指導者達は、共に世界の繁栄を求めるようになる。彼らは大陸に深く刻まれた傷痕を境にして、北と南とにその領土を分断すると、相互不干渉の条約を交わすことで和解と平和の道を選んだ。
 そうして訪れた穏やかな時の流れは、世界と歴史に刻まれた傷痕を時と緑で覆い隠し、大地を憎悪で染めた闇の記憶はいつしか人々の記憶から遠ざかり薄れていった。

 それからいくつの時代が過ぎて行ったのか。

 

* * *
 


 穏やかな日の光が大地を包み、草原を渡る風が凪ぐ。
 草原を見下ろす国境の丘で、蒼穹に白い軍服が映え軍旗を翻す精悍な顔立ちをした馬上の青年達のその姿は、彼等が王国の騎士団である事を容易に想像させる。

 テュール大陸を治めるオグミオス王の治める統治国家ギュミルとバロ−ル王の治める軍事国家タラニス。両国がその名を混沌に満ちた争いの歴史に刻んだのは、今はもう遥か遠い昔の事。最後にこの国境が戦場になったのはいつの事だったのか、歴史の書物を紐解く者も今はもう数少ない。
 平和な時代と呼ばれるようになってから随分長い時が過ぎ、今となっては騎士団がこうして視察警備として時折国境付近を訪れては、両国の間に横たわる「大地の裂け目」と呼ばれる谷底を臨み、この世界の平和を実感するのが任務の一つになっている。そう言ってもそれはおそらく過言ではなかった。事実、彼等ギュミルの王国騎士団もこの地を訪れ早数日、広大な大陸を渡っていく風の色と澄み渡った蒼穹を眺めながら、ただ国境沿いを移動するだけの退屈な日々を過ごしていた。

「ったく、いいかげん田舎観光も飽きたな」
 ふと剣士の一人が漏らした言葉は、波紋となって小さなざわめきを生む。それはこの長く続く退屈な時間の中で、いつしか多くの者が思い始めていた本心であると同時に、口にするのを憚っていた言葉。一斉に向けられた視線を浴びた先にいたのは、左耳に紅玉のピアスを一つ灯した、琥珀色の髪に翡翠の瞳を持つ青年の姿だった。
「よさないかリーグ」
 傍にいた剣士の一人にたしなめられ、リーグと呼ばれた青年は苦笑しながら肩をすくめてみせる。その様子に周囲から向けられていた視線は、どこか冷めた眼差しへと変わっていった。それは彼が身につけている小物に施された上質な細工や装飾、そして腰に下げている長剣に一際輝いている緋色の宝玉など、そのどれもが彼に高貴な地位と将来が約束されている事を指し示している事に起因していた。実際、彼はこの騎士団の中でも隊長格の騎士の後に続く位置に馬を置いていた。おそらく名も無い剣士の一人ならば、決して許される事もない暴言も、彼なら不問となり許されるのだろう。羨望と嫉妬そして憧憬と敵愾の混じった複雑な視線に気付いたリーグは、周囲の剣士達に一度だけ視線を向けてから、ゆっくりと大袈裟に首を振ってみせた。
「口が滑っただけだろ、そんな怖い顔すんなって」
「口を慎め、周りに示しがつかない」
 その言葉に自分の後ろに続く隊列を振り返ったリーグは、やれやれとため息をつきながら空へと視線を移した。
「俺達がしている事の意味は何だろうなって、そんだけだ」
 そう続けるリーグの様子に、声をかけた剣士は呆れ顔でため息をついた。
「俺達が暇な事は良い事じゃないか」
「確かにそうだ」
 彼ら騎士団にとって何も起きないという事は平和である事の証。事もなく全てが丸く収まっていくのなら、それがたとえ何も変わらずただ流されていくだけの世界だとしても、戦乱を知らないこの国の人々のためには、それは何事にも代え難い護るべき世界のあるべき姿だという事。
「そう見えるなら、それでいいって事か」
 吹き抜けた風でかき消すようにして呟いた言葉とわずかに歪んだ口元を隠すようにして、リーグは片手でマントの端を持ちあげながら風をやり過ごすと、何気なく向けたその視線の先、さっきまで何もなかった草原の真ん中に黒い影が揺らめくのをみつけた。
「あれはなんだ?」
 訝しげに呟いたその瞬間、その黒い影は風に吸い込まれるように掻き消える。その光景にリーグは思わず目を見開いた。
「どうかしたのか?」
 問いかける声にも返事をせず、リーグは影の消えた草原に鋭く視線を走らせた。風が吹くたび下草がざわめく草原には遮るものなど何もない。ただ視線の先に捕らえた黒い影の残像は一筋の標となって大地を横切り、広い草原に緑影を落とす樹々の向こうへと伸びていた。あきらかに不自然なその影に、いつまでも続くこの退屈な日々から、しばらくの間は解放される期待に翠の双眸に鋭い光を宿して、リーグは思わず口元に笑みを浮かべた。

「申し上げます。前方の草原に不審な影を目撃。こちらに気がつきその姿を消した挙動に些か疑念を感じる故、直ちに該当周囲の偵察に行ってまいります」
「あっちょっと待て、おい!」
 リーグは上官に偵察の意を告げながら、返事を待たずに手綱を操り馬の腹を蹴る。そしてそのまま背中に追いすがる制止の声にも振り返らずに、静かに沈み込むような緑深の影だけを視界に捉えて馬を駆る。やがて視界に迫る森の緑の予想以上の深さに小さく舌打ちをしたリーグは、後ろを振り返って追ってきた一人の剣士の姿に僅かに眉をひそめてから、そのまま森へと踏み入った。

 

* * *
 


 静かな森の中で乾いた枯れ葉を馬の蹄が踏みしめる音だけが耳につく。
 やがて高い森の樹々が空を覆い隠し、枯れ葉と苔に湿った大地に落ちる影の輪郭が曖昧になり始めた頃、リーグの後ろで息を潜めいた剣士が口を開いた。
「なぁ、もしかしてここって噂の森じゃないのか」
「なんだよ、その噂の森ってのは?」
「聞いた事ないのか?」
 振り返って首を傾げるリーグの言葉に呟いた剣士が眉をひそめる。その様子にもう一度首を傾げたリーグは考え込むようにして腕を組み、思い出せるいくつかの記憶をたぐり寄せた。やがてリーグはいつかどこかで聞いた事のある一つの噂話を思い出した。
 ――それは国境近くにあるという森の話。

「惑いの森」

 いつからか人々にそう呼ばれるその森は、人の目には見る事も触れる事もできない「精霊」と呼ばれる存在ーー時に神と呼ばれ時に魔とも呼ばれる不確かな存在ーーが森に立ち入る者を拒絶し、迷い込んだ者の多くを帰す事はなく、戻って来られた者もみな正気を失い狂気に落ちていたという。
 たしかそんな話だったはず、と思いながらリーグは周囲を一度だけ見回すと、不安気な表情で辺りを見回す剣士に肩をすくめてみせた。
「ここがその『惑いの森』だって言うのか?」
「ああ、噂に聞いた話と符合する」
 どこまでが本当なのかわからないような噂話に登場する、稚拙な条件をいくつか挙げてみせる剣士の言葉に苦笑しながらも、何かの違和感を感じたリーグは森の奥へと視線を向けた。薄暗い森の奥を見つめる視線の先。聞こえて来るのは吹き抜けていく風とその風に揺れる樹々のざわめきだけ。こんな静かで穏やかな森に何があるのかと思いながら、リーグは辺りを見回してから視線を下に向けると、不意にその違和感の正体に気がつき表情を硬くする。

 静かで穏やかな森、だがこの森は静かすぎた。
 木漏れ日の差し込む鮮やかな葉の緑は、惑いの森という異名を持つにはあまりに普通であまりに穏やかな色をする。しかし森に入った時から鳥の囀声も動物の鳴声一つ聞こえてはいなかった。それは森に迷い込んだ「生きる者」を拒む精霊の仕業ではないにせよ、やはりこの森は普通の森とは違うという証拠なのかもしれない。そう考えてからリーグはすぐにその考えを振り払うかのようにして小さく首を振った。そもそも森というものは存在自体そのものが異質なモノとして、どんなに些細な事だとしても不可思議な事象が一つあるだけで、不気味で怪しい存在だと決めつけられてしまう事が多い。それに惑いの森の噂話も、「今まで誰もまともな状態では帰ってこられなかった」という事になっているのに、一体どうやって森が人を拒絶すると知り得たというのか。故意に広められた噂という事もないとはいえないのではないか。
 リーグは胸に溜まった息を吐き出すようにため息をつくと、後ろで落ち着きなくあたりを見回している剣士に振り返った。
「なぁ、もしここが本当にその惑いの森ってやつなら、その噂の真実を確かめるってのはどうだ?」
「何を馬鹿な事を言ってる」
「国民の不安を取り除く事も俺達の『オシゴト』なんだろ?」
 そういいながら自分の胸元を指差すリーグに剣士は困惑した表情を浮かべる。そんな様子にリーグは声色を一つ下げて言葉を続けた。
「このまま戻れば勝手に行動した咎を受けるだけ、だったら何か結果を出す必要があるとは思わないか?」
 その言葉に否定でも肯定でもない曖昧な表情を見せた剣士に、リーグは肩をすくめてから首を横に振ってみせた。
「じゃあこの先は俺だけで行ってくる」
「そ、それは駄目だ!」
「心配すんなって、もう少し先の様子を見てくるだけだから」
「しかし一人は危険すぎる!」
「でも一緒についてきて戻れなくなっても知らないぞ」
 まるでからかうようなその言葉に、苛立の表情を滲ませ黙り込んでしまった剣士の様子に、リーグは静かに深い息を吐き出してから顔を上げた。
「勝手に飛び出してきたのは俺だ。この森の噂がどこまで本当なのかはわからないが、もし戻れるのなら今のうちだ。お前まで巻き込まれる必要はない」
「しかし俺は、お前を無事に……」
 微かに震えるような剣士の言葉にリーグは翠の双眸を細めると、視線を逸らすようにして薄暗い森の奥を振り返ってからため息をついた。彼の立場を考えればどんな所でもついてくるのだろう、それはリーグにもよくわかっていた。
「ここまで来た以上何かしらの結果は必要だ。もう少しだけ先を偵察してから戻る。それでいいか?」
 同意する剣士の言葉を背中に聞きながら、深い森の緑の奥を見つめたリーグは、マントの下で腰に下げた剣の柄を握りしめてから後ろを振り返った。
「いいかこれは「俺から」の命令だ。俺だけが無事じゃ駄目だからな」

 そう言って笑った翠の瞳は、そのまま深い森の緑の奥へと溶けて消えた。


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