銀の月森

 二人が森の奥へ向かってどれくらいの時間が過ぎたのか。どこまで進んでも周りの景色は代わり映えもせず、まるで穏やかな森の中をのんびりと散策しているような錯覚さえ感じる。予想していたとはいえ、やはり現実にそうであるこ事を見せつけられて、リーグはやれやれとため息をつく。この森に生き物の気配がないのは、ただたんに恐ろしく獰猛な生き物が生息しているという事なのかもしれない。それは確かに迷い込んだ人が無事に帰ってこられない理由にはなるが、生き物か精霊か、そのどちらかが原因であるにせよ、ここまで進んで来ても何も起こらないという事は、おそらく自分達には何も危害を加える気がないという事なのだろう。
「もういいだろう、そろそろ引き返さないか?」
「そうだな、ここまでだな」
 そんな心を察したようにかけられた言葉に、リーグは気の抜けた返事を返して元来た方へと馬の首を向けた。そしてどこか安堵した表情を浮かべる剣士と目が合うと、リーグは苦笑しながら馬上で両手を上げるようにして背筋を伸ばした。
「しっかし、本当に何にもないとはなぁ」
 樹々を揺らす風が頬を撫で琥珀の髪を靡かせる。その風に緩く瞬きをしたリーグは、苦笑しながら高い梢から僅かに零れ落ちてくる日差しを見上げた。
 噂というものは歪んだ捉え方の一つ典型。物事の本質や真実を見ようとしない人々の、口から口へと流されて行くだけの言葉の繋がりから生まれるもの。もし仮にこの噂が歪められた虚言だったとしても、真実を見極める事が出来ないのなら、歪められた虚言を人々は信じ続け、いつしかそれが真実となって世界に満ちていくのかもしれない。リーグは不機嫌そうに表情を歪めると、目印として木の幹に僅かに残していった剣の傷跡を探す剣士の後姿を眺めた。このまま元来た道を辿ってしばらく歩き続ければ森の外に出るのは時間の問題。人を惑わすという精霊の噂。生き物の気配のない静かな森。草原で見かけた黒い影。結局そのどの真相も明らかになるどころか、手掛かりの欠片すら知る事もできないまま、戻って行くのはあの平穏な時が流れる草原の中。そこはいつもと変わらぬ日常の世界であり。誰もが平和だと感じる事の出来る穏やかな世界。
 結局『惑いの森』という代物は、人が作り上げた都合のいい言い訳にすぎないのかもしれない。自分の元から立ち去ってしまった人を忘れる為に、変わってしまった人の心を諦める為に、自分自身に言い聞かせ思い込む為の言い訳が、いつしか不可思議な出来事として噂となり、一人歩きしただけなのかもしれない。
 そんな事を考えてリーグは緩く頭を振ると風に乱れた髪をかきあげながら、指先が掠めた耳元の小さな紅玉の感触に小さくため息をついた。
「嘘こそが真実って事だよな」
「ん、何か言ったか?」
「いいや、別に」
 リーグは小さく言葉を吐き出すと、目を伏せてからもう一度深くため息をついた。

「ーーー」

 不意に遠くで誰かに呼ばれたような気がして、顔を上げたリーグは周囲に視線を向けた。見渡す森の中には何の気配も感じられない、でも確かに何かが居る。その気配を最も強く感じる森の中心へ向けて視線を細めたリーグの様子に、剣士は怪訝そうな表情を浮かべた。
「どうしたんだよ?」
「しっ、静かにしろっ!」
 短く遮った言葉と同時に、足元を強く吹き抜けた風は周囲の樹々を大きくざわめかせる。そしてそれは見る間に森の奥へと瞬く間に森の色を塗り変えていった。さっきまで感じていた穏やかな雰囲気とはまるで違う、大地に漆黒の影を落とすような重苦しく圧し掛かる気配が周囲を支配し、二人は身構えるようにして口元を引き締めた。
「ようやくおでましみたいだな」
 リーグは瞳に鋭い警戒の色を浮かべながら、引き返そうとしていた道の先を一瞥してから森の奥へと意識を尖らせる。澄ました耳に聞こえるのはただ樹々のざわめき。でもそのざわめきに混じって、時折声にならない声のようなものが聞こえる気がするのに、リーグはゆっくりとそして深く息を吐いた。
「どうする?」
 選択肢は行くか戻るかの二つしかない。今この声の主を求めれば、この森の真実を確かめる事ができるかもしれない。問いかける言葉に剣士がしばらくの間を置いてから頷くのに、リーグは小さく頷き返した。
「いいか、絶対に離れるなよ」
 

* * * 

 森を吹き抜ける風の音にかき消えては聞こえるその声を手繰り寄せるようにして、二人は森の深部へとその身を委ねていった。声なき声に呼ばれ道なき道を辿って、どれくらいの時が流れたのかどれくらいの距離を進んだのか。視線の先に続く景色は何も変わらず、ただ深い森の樹々だけが進む行く手に幾重にも重なる。
 声の主を捉える為の視覚と、その声を聞き逃さない為の聴覚。その両方の神経を張りつめ続けたリーグは、疲れたように一つため息をつくと、不意に弾かれたようにして顔をあげ眉をひそめた。森の奥に気を取られすぎていたせいか、いつしか並んで隣を進んでいたはずの剣士の姿が見えない。
「しまった!」
 リーグは剣士の名前を大声で呼びながらあたりに視線を向けた。しかし森はそんなリーグの声さえも呑み込むようにして静まり返り、見上げた高い梢の木々に遮られ拡散した陽の光は、樹々の隙間から僅かに見えているはずの空の彩度を奪い、足下にいくつもの曖昧な影の輪郭を落としていた。深い森の緑はただ暗くそして拡散する光は白く、その相反する色彩は全ての感覚を麻痺させようとして視界を惑わす。その光景にリーグは舌打ちをしながら馬の背を降りると、呼吸を整えるように深く息を吐いた。
 目に見えるものに頼ってはならない、見えないものを見えないと思ってはならない。惑わされるものが目に見えるものならば、求めるものは姿なく聞こえるだけのものならば、必要なものは視覚ではなく聴覚しかない。ゆっくりと息を吐いてリーグは静かに目を伏せると、途切れた集中力を呼び戻し次第に研ぎすまされてくる聴覚に意識を向ける。だが澄ました耳に聞こえてくるのは、風に揺れる葉の音と風を孕んだマントが揺れる音だけ。どれだけ意識を向けてみても、さっきまで聞こえていたはずの声が聞こえてこない事に、リーグは苛立つようにして足下の枯れ葉を蹴り上げた。
「ちくしょう、やられた」
 途切れた手掛かりは深い森の奥へと消え失せ、途切れた集中力は深い森の奥から出る為の標を見失う。けして戻る事の出来ない森。たとえ戻って来られたとしても正気を失う森。幾多の人々はこうして自分の辿るべき道を失い、嘆き絶望しながら森を彷徨い続け孤独の中で朽ちてしまったのか。たとえ孤独に耐える事ができたとしても、一度絶望に蝕まれた心は元には戻らなかったのか。
 リーグは頭をかいてからそれは自分にも当てはまるのだろうかと考えると、はぐれた剣士の事に思いを馳せてから深くため息をついた。
「俺と同じ状況ならまだいいんだけど」
 言葉とは裏腹に思い浮かべてしまったあまりいい状況ではない光景を、リーグは振り払うように首を振ると、とりあえず落ち着く事、まずはそれを優先するべきだと考えて、 ざわめく心を抑えるようにして木の幹に体を預けてから深呼吸をするように幾度か息を吐いた。そしてふとある事を思い出したリーグは顔を上げると慎重に辺りを見回し始める。
 ここは人を惑わす『精霊』が住まう森。ならばここには。
「『アレ』があるはずだよな」
 そう呟いたリーグは見回す視線を足元へ落として、木漏れ日が湿った大地に作る日溜まりを注意深く見つめはじめた。

『精霊』それは、時に神と呼ばれ、時に魔とも呼ばれる存在。
 時に人の形をし、時に動物の形をもする精霊は、その存在の全てが不確定であり不定義である。その姿は容易く現れる事はなく、彼等がどこに存在しどうやって『こちら側』来るのか、その真実を知っている者はおそらく存在しないだろう。しかしそんな不安定な存在である精霊と言葉を交わす事ができるのは、太古の昔に契約を交わしたと伝えられるエルフ族だけだった。
 しかしそれはほんの数十年前までの事だった。人とエルフとの違い、そして人と精霊の間にある見えない隔たり。それを解明しようとしたギュミルは、神霊院と呼ばれる施設に国内外から優れた研究者達を招き、日々精霊の研究に力を注いでいた。精霊との繋がりを求める事。それはこの世界において儚い存在である人々だからこそ求める神秘への憧憬。たとえ僅かであったとしても精霊との繋がりを得る事で、そんな感情の空虚を満たす事ができるのなら、と望む人の意思。そしてその未知の力を手にする事で、同時に手にする事のできる支配力への執着という闇に染まった人の意思。
 しかしそんな思いも空しく、手掛かりさえも見いだす事も出来ずに、過ぎ去って行くだけの年月の中で、やがてその思いは苛立と諦めに染まっていった。
 そんな時、一人のまだ若い研究者が神霊院を訪ねてくる。
「精霊と言葉を交わす方法を知っている」
 そう言ったその研究者が謁見を許された王の前で説明した方法は、ある特殊な鉱石を身につけ契約の言葉を紡ぐだけ。そのあまりにも単純なその方法に、誰もが驚き、呆れ、嘲笑と侮蔑の言葉を浴びせかけた。彼等のそんな様子にその研究者は、黙って緋色に輝く鉱石を取り出すと、その鉱石に向かって静かに契約の言葉を紡いでみせた。そして――
 程なくギュミルは世界各地に点在しているという『神霊石』と名付けられたその鉱石を探す事に尽力するようになる。そしてある一つの事実を知る事になった。
 それは精霊の傍には必ず神霊石があるという事。
 精霊達が神霊石を守っているのか、神霊石があるから精霊がいるのか、それは定かではないけれども、彼等と神霊石は何らかの深い関わりがあるのは明白だった。ギュミルは知り得たその事実を元にしてあらゆる方法を試し、人と精霊との契約を成し遂げようとする。だがどれだけ神霊石を集めて、どれだけ複雑な契約の言葉を紡いだところで、所詮それは真似事に過ぎず、人と精霊との契約は一度として成立する事はなかった。
 やがて研究者達はたとえ契約が成り立たず精霊本来の力を操る事は不可能だとしても、彼等の持つ莫大な知識を得る為に、そしていかに長く人の傍に留める事ができるのか、その方法を探すようになった。
 しかしどうしてその若い研究者はその方法を知り得たのか、なぜその鉱石の存在を知っていたのか。「不意に思いついた」としか答えない研究者は、その日から神霊院の最高顧問に招かれ、特別に与えられた専用の研究室で、精霊についての研究に没頭するようになり、いくつもの新しい事実を調べ突き止めていくようになった。
 いつしかその研究者の事が、知識の神とされる『精霊ボル』と、その研究者の持つ瞳の色から。『ボルが愛でた翡翠』と呼ばれるようになったのは、今よりおよそ三十年余前の話。

「一つや二つ、どこかに落ちていそうなんだけどな」
 馬の背を降りたリーグは、手綱を引きながら視線を下に向け慎重に足を進める。
 本来神霊石は光り輝くような鉱石ではない、人の手を加えて磨きあげる事で宝飾品と成り得る物もあるが、こうしてまだ森の中に紛れ込んでいる物は、他の石とさほど大きな違いはない。簡単にはみつかりそうもない事に、リーグは頭を掻いてからため息をつくと、木漏れ日の差し込む頭上の樹々を見上げた。途中ではぐれてしまった剣士がもし無事に森野外へと脱出する事が出来ているのなら、そのうち誰かが探しに来るかもしれない。それを気長に待ち続けるか、それともなんとか自力で脱出を計るか。どちらにせよ隊から離れて随分時間が経ってしまった今となっては、ちょっとした騒ぎになっているだろう。そう考えてもう一度深くため息をついたリーグは足下に落としていた視線を上げた。いつもならそんな身勝手な事や、後先を考えずに行動する様な事はまず考える事はない。大事な事は自分勝手な考えよりも、周りの人に合わせた調和であり、乱してはならない規律を固く守る事だったのに。
 全てはあの最初に見つけた黒い影から始まっている。
 それを捕らえたのはこの翠の瞳ではなく、あの黒い影が自分の存在を捕らえたのだろうか。もしそうだとしたら。
「森に入る前から捕まってるも同然じゃないか」
  このままじっとしていても埒はあかない。ただ前を向いて進むしか取るべき道はない。捕われてしまっているのなら尚更戻る事を考えるよりも。
 そう考えて顔を上げたリーグは、今思いつく唯一の解決策である神霊石を求めて再び歩き始めた。


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