銀の月森

 森の樹々を揺らす風の音と、時折小枝を踏みしめる乾いた足音だけが響く薄暗い森の中で、 白い軍服が緑影を遮る。
 再び歩き始めてどれくらいになるのか。森の色が一層色濃くなり始めた頃、 諦め混じりのため息を長く吐き出したリーグは、大地に落としていた視線を上げると、 未だ深い森の奥へと視線を向けてから、丸めていた背を反らすように伸びをしながら頭上へと視線を移した。
 そこに在るのはどこまでも同じ、ただ彩度や明度の違う緑だけ。果てしなく繰り返し続く色彩に肩をすくめたリーグは 森との中の色彩と同じ翠色したその瞳を伏せた。
 見つけようとするから見つからないのは良くある事。そう思いながら伏せた瞼の裏でただ漆黒に塗りつぶされた世界には、風のざわめく音だけが満ちていく。 そのまま静かに足を進めてみれば、不安定な足元は横たわる木の根に取られ行く手を阻まれる。 「ふざけてる場合じゃないか」
 自分のした事の滑稽さに一人苦笑したリーグは瞼を開くと、目の前に広がる森に再び目を凝らす。 しかしそこに在るのは目を開いても先の見えない世界だけ。 次第に押し寄せて来る苛立と焦りの感情に、リーグは足元の落ち葉を乱暴に蹴り上げた。
 舞い上がった落ち葉が、乾いた音を立てて降り落ちる様子を睨みつけたリーグは、 視界を遮った落ち葉の向こう、さっきまでただ深い緑に遮られていただけの森の奥に、 微かに別の色が混じっているのに気がつき目を細めた。
 それはまるで煌めく光のようであり、樹々の間を飛び回る白い鳥の羽のようでもあり。 頼りなく揺れるような微かなその色彩にリーグは訝しげに眉をひそめると、 腰元の剣の柄に手をかけながら辺りの様子を息を潜めて探る。
 探し求めている神霊石は光り輝く石ではない。だが日の光を受けていれば、 僅かばかりの光を反射し輝く事もある。 しかしここは惑いの森。出口を求め彷徨うリーグの行き先を惑わそうとする精霊が、幻を見せている可能性も否定できない。 そんな相反する期待と不審の感情にリーグは緩く頭を振ると、 このまま宛もなく彷徨い続ける事よりも、僅かな可能性と進展を望みながら、 口元を引き締めその色に向かって歩き始めた。

 目指す目的が出来れば足取りは自然に早くなる。 その正体は何なのか、早く確かめたいという感情を抑えながら、リーグは足早に幾重にも重なる小枝を払って、 足場の悪さに遅れがちになる馬の手綱を引く手に力をこめる。
 やがて幾重にも重なった深い緑が途切れ、鮮やかな新緑のような色彩が広がる場所へと辿り着いたリーグは、 乱れた呼吸を鎮めるように息を呑んでから、視界を遮っていた最後の枝葉を払った。
「なんだ」
 目の前には静かな水をたたえた小さな泉が、その水面で木漏れ日を揺らし煌めいていた。
 期待を裏切られた落胆と不審を拭う事のできた安堵の感情にリーグは大きくため息をつくと、 神経を張りつめたままで歩き続けた疲れをようやく思い出し、 まるで引き寄せられるようにして水辺へと向かい水面を覗き込んだ。
 それはまるで森の緑を映したような深い緑を沈めた鏡のようで、 水面に映った自分の顔を見下ろしたリーグは水辺に膝をつくと、グローブを外して両手でその水を掬い上げた。
 指の間から零れ落ちる水は冷たく透き通り、薄暗い森の中で僅かな光にも煌めきを放つ。 その清浄ささえ感じる光は、暗闇に支配され荒み始めていた心を癒してくれるような気がして、 リーグは深く長い息を吐き出すと、掬った水で喉を潤してからもう一度ため息をついた。
「そういえば水の中にも精霊って居るんじゃなかったか?」
 そんな事を呟いて、リーグは水底を覗き込むと、 透き通る水の中で泳ぎ回る小さな魚影にリーグは肩をすくめてから顔を上げる。 そして自分の歩いてきた薄暗い森の方角を眺めると、大きく首を横に振りながらため息をついた。 安堵の感情に支配された体からは、すっかり足を動かす気も神霊石を探す気も失せていた。 今夜はここで一晩明かす事になりそうだと思いながら、リーグは膝を伸ばし立ち上がろうとすると、 不意に背後から聞こえた物音に、素早く腰の剣を抜きながら振り向くとその翠の瞳を見開いた。

 そこに居たのは長い銀髪の女性。
 風に靡いたその銀の髪は水面に煌めく光のように微かに青く、 リーグを見つめる深い水底のような碧い瞳を見開きながら、手元から落としたのか、カゴを足元に転がしたまま驚いた様子で立ち尽くしていた。
 輝く光の白、透き通る碧、穏やかな緑。
 それ以外の全ての色を失ったような感覚に、まるで時が止まったような錯覚さえ感じながら、 驚きを隠せない碧の瞳と呆然とみつめる翠の瞳だけが、互いの存在を世界に縫い止める。
「ええっと、誰だ?」
 いつまでも続くかのような沈黙の時間を先に動かしたのはリーグだった。 怯えるように体をすくめたまま、黙って翠の瞳だけを見つめ返す碧い瞳に、 突きつけるように構えたままの剣の切っ先にリーグは気付くと眉を潜めた。
 目の前にいるのは人かエルフかそれとも精霊が見せる幻か。 こんな森の奥に突然現れた素性も正体もわからぬ女にどうするべきなのか。 しかし未だ身動きすらしないで怯えた表情を見せる女の様子を眺めたリーグは、 大きく吐き出すようにため息をつくと、剣の切っ先を力なく下ろした。
「驚かせて悪かった。ちょっと道に迷って苛ついていたんだ」
 リーグはそう言いながら剣を鞘に納めると、左手を鞘にかけたままで苦笑しながら、 足元のグローブを拾い上げながら女の様子を窺った。
 彼女の足元で転がっているのは木の実の入ったカゴのようなもの。 身なりも整えられているしどう見ても森を彷徨ってここに辿り着いた様子ではない。 ではこの女は一体どこから来た何者なのか?
 随分長い間森の中を彷徨い続けて歩いていたはず。 その結果入って来た森の入り口とは反対側にいつの間にか辿り着いていた可能性はある。 もしかすると彼女はこの森の近くの村娘なのかもしれない。 しかしここはやはり惑いの森と呼ばれる場所。 それに今まで通ってきたあの薄暗い森の中で、泉のあるこの場所だけが異質な存在感を放っている。 それはこの泉の底に神霊石がある可能性も否定できないだろう。 神霊石のある場所には精霊が居る。 ならば目の前に居るこの女は精霊の見せる幻、もしくはこの女自身が精霊である事も否定できない。 だが自分が今まで探していたのは神霊石。それは元々精霊に会うつもりで探していたもの。 彼等に会ってこの森から抜ける方法を聞き出す為、そしてこの森の真理を聞く為だったのなら、 今目の前に居る女が精霊ならばそれはむしろ好都合ではないのか。
 そんな事を考えたリーグはマントの下で剣の鞘から手を外すと、 未だ体を強張らせたままの女に向かって両手を広げて肩をすくめてみせた。
「大丈夫だって、何もしない」
「あなたは誰なんですか?」
 リーグのその様子に全身から滲むような警戒を僅かに緩め、押し黙っていた彼女が呟いた言葉に、 答える言葉を探しかけたリーグは、自分の姿が嘘をついてもすぐにばれる格好をしている事を思い出し、 肩をすくめてから偽る事なく名前と所属する部隊の名を告げた。
「俺はリーグ。ギュミルの戦武院第一騎士団所属の剣士だよ」
「せん……ぶ?」
「おいおい、知らないのかよ」
「あ、すみません」
 慌てて謝罪の言葉を口にする女の様子にリーグは微かに目を細める。 もしこれが全てリーグを陥れる為に計算されている行動だとしたら、 圧倒的に相手の方が有利なこの森の中では、真面目に受け答えしたところでうまくあしらわれてしまうだろう。 今は相手の出方に合わせながら、自分の位置を把握するのに専念して隙を伺うのが得策。とリーグは考えると、 なにげない言葉を選んで口にした。
「まぁいいや、ところでここってどこ?」
「ここは、ウルドの泉です」
「ふーん、こんな森の奥にこんな場所があるなんてねぇ。知らなかったな早く戻ってみんなに教えてやろう」
 様子を伺うようにそう口にしたリーグの言葉に、女は視線を僅かに揺らす。 その揺らめきに目を細めたリーグは、素早く周囲に視線を巡らせてから、 真っ直ぐ女の顔を眺めながら肝心な言葉を続けた。
「ところで、森の出口はどっちが一番近いかな? 教えてくれないか」
「出口ですか。ああでも、今日はもう駄目です」
 そう呟きながら女が見上げる視線の先。樹々の向こうに見える高い空の端は、 漆黒と紫紺が混じり合う茜色をして夜の闇が近い事を示す。その色にリーグは思わず眉をひそめると、 睨みつけるようにして女に視線を戻した。
「今から森の外に向かったら、途中で日が暮れちゃいます」
「出口の場所さえ教えてもらえたら、それでいいんだけど?」
 でも、と呟いてそのまま黙りこんだ女の様子に、リーグはゆっくりと息を吐くと声色を落とした。
「そうか、やっぱり簡単には帰してくれる気はなさそうだな」
「え?」
「あいにくだが、俺はそう簡単にやられる気はないぜ」
 そう言いながら再び腰の剣に手をかけるリーグの様子に、女は驚き慌てた様子で首を横に振ると、 鋭く向けられたリーグの視線に怯えたようにして一歩後ずさった。
「ほ、本当に危ないんです、夜になると小さい子<精霊>がたくさん出て来るから」
「精霊ねぇ」
 弁解の言葉を続けるヴィルダの様子に懐疑の眼差しを向けたリーグは、 傾く日差しが森に深い陰影を刻み森を闇色に染めていくのを、黙って暫く眺めてから小さく舌打ちする。
 その言葉はおそらく嘘ではないのだろう。たとえこの場所を良く知っていたとしても、暗い夜の森の中では何が起こるのかは予測は出来ない。 夜の闇は精霊達の世界。そしてここは精霊の住む森の中。 ならば闇雲に動き回るよりも一カ所でじっとしている事が、最良な策だということは考えるまでもなく、諦めにも似た感情を感じたリーグは深くため息をついた。
「わかったよ、今日のところは諦める」
「よかった。でもここも夜は危ないですから」
「なに、自分の身くらいは自分で守れるさ」
「あの、えっと、とりあえず私の家に来ませんか?」
「はぃ?」
 思わぬ言葉に僅かに目を見開いたリーグは、目の前の女の顔をもう一度眺めた。
 自分よりも少し年下にも見えるその顔つきは、銀髪にも関わらず色白に見える程で整った顔立ちをしている。 というよりもむしろその容姿は人ではない者が放つ存在感を持つ気配すら感じる。しかし女はエルフの特徴である長い耳を持ち合わせてはいなかった。
「あの……」
 黙って睨みつけるようなリーグの視線に女は不安気な声を漏らす。 まるで自分の方が得体の知れない者と思われているようでリーグは苦笑すると目を伏せて緩く首を振った。 こんな森の中では何かを疑い出したらキリがない。目の前の女の正体がなんであれもしこのまま別れてしまう事になれば、 せっかく手にした真実への糸口も途切れてしまうのかもしれない。一体自分は何の為にここまで来たのか。 リスクを抱える事で何かしらの結果がもたらされるというのなら、選び取るべき道はただ一つしかない。
 何かあったらその時考えればいい。それだけの事と考えたリーグは、 強張らせていた表情を緩めると、何かを吹っ切るようにして肩を覆っていたマントを跳ね上げる。
「わかった、そうしよう」
「本当ですか、よかった」
 素直に喜びの表情を見せる女の様子にリーグは肩をすくめると、 足元に転がったままのカゴの中身を急いで拾い上げる様子を暫く黙って眺めていた。 そんな視線を感じたのか、不意に見上げるその視線と目が合ったリーグはおもわず小さな声を上げた。
 揺れる銀色の前髪の向こうからリーグを見上げるのは、碧い瞳とは違うもう一つの瞳が放つ氷のような銀色の光。
 その声と驚きの表情を浮かべたリーグの様子に、女は慌てて前髪を直す仕草をするのをリーグは見下ろしながら、 出逢った瞬間から感じていた妙な違和感と、そしてこんな深い森の中に一人で居た事、 そんな不可解な疑問が霧が晴れるように明白になるのを感じて、そのまま黙って俯いてしまった女に静かに声をかけた。
「俺は『気にしない』から」
 左右で色の違う瞳を持つ者は、人とエルフという種族の違う親を持つ者。 人には好奇の目で見られ、エルフには『禁忌の子供』と蔑まされる者。
 彼等は人やエルフとは違う『異質な者』であるという理由だけで、 多くの者が居場所を失い人知れぬ場所で孤独に生き孤独に死んで行くという。 彼女もそんな思いを抱えながら居場所を求め、こんな森の奥に辿り着いたのかもしれない。 それならばこの森の中では踏み込んできたリーグの方が異質な存在であり、排除されようとしても当然なのかもしれない。
 『普通とは違う』という事は、奇異であり疎まれなければならないものとして、 扱われるのはどこに行ったとしても同じなのだから。

 リーグの言葉にゆっくりと顔をあげた女は、力なく小さく笑ってから荷物を抱えて立ち上がると、 リーグを案内するようにして森の奥を指差しながら歩き出す。
 その後ろ姿を眺めながら、リーグは迷いを振り払うようにして頭を振ると、 漆黒色した帳が静かに覆いはじめる森の中を、銀の光に導かれるようにして歩き始めた。


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