銀の月森

 薄闇に灯る白銀の光に導かれ、翠深い森を進む二つの足音は、 迷う事なく道を進んでいく。
 リーグは道行く途中で聞いた女の名前「ヴィルダ」の華奢な背中を眺めながら、 次々と沸き上ってくる疑問に何度も眉をひそめていた。 どうしてあんな所に一人で居たのか、どうしてこんな所に住んでいるのか。 色の異なる瞳のせいなのか、本当の理由。人なのかエルフなのか、それとも――
 しかしその答をこの場で問いただす事はできず、そしていくら一人考えても答えは出るはずもなく、 ただ募って行くばかりの懐疑心を振り払うようにして、リーグが何度目かのため息をついた時、ヴィルダは不意にその足を止めた。
「あそこです」
 そう言いながら振り向いたヴィルダが指差す方に目を向けたリーグは、 視線の先に見えた小さな家を眺め緩く瞬きを繰り返す。 ひっそりと建つその家は、周囲の樹々に紛れるようにして古びた輪郭を緑影で覆い隠していた。 おそらく日が高く明るい時間であったとしても、建物の存在を見つけるのは困難だろう。 しかしこの森に紛れ込む者は多くはないはず、それなのにここまで人目を避け隠れる必要があると言うのだろうか。 その意図する所を考えながら黙りこんでしまったリーグの様子に、 ヴィルダは首を傾げてからやがて何かに気がついたかのように小さく頭を下げた。
「すみません、あまり綺麗な所じゃなくて」
「え? あぁいやそうじゃなくて」
 自分の考えている事とはあまりにかけ離れたその謝罪の言葉に苦笑しながら、 リーグは再び歩き出すヴィルダの背中に続いて小屋の小さな木戸をくぐった。

「ただいま」
 開いた扉の奥の薄暗い部屋に向かって、声をかけるヴィルダ様子に、 リーグは瞬きをしてから小さく声を漏らした。その声に怪訝な表情で振り返るヴィルダに頭を掻いたリーグは、 なんでもない、と言った風に首を横に振ってみせた。
 そう、いくらエルフ族に禁忌の子と疎まれ、人に好奇の目で見られるとしても、 こんな薄暗い森の奥に女が一人で住んでいるわけがない。 誰かに匿われているとか、似た境遇の者と一緒に居るとか、そう考えるのが自然だろう。 そんな少し考えれば思いつけるような事を、今まで全く気がつかなかった事にリーグは一人肩をすくめると、 ヴィルダの声に答えるようにして、扉の奥から現れた人物の姿に絶句した。
 薄暗かった部屋の明かりを灯してから、穏やかな表情でヴィルダを迎え入れた人物は、 長い黒髪を後ろで束ね、エルフ特有の長い耳を持つ長身の青年だった。

 ギュミルの北西に広がる山岳地帯には『ノーアトーン』と呼ばれる聖地が存在する。 そこにはエルフ族が『アーブルヘイム』という小国家を築いていたが、 『ハイエルフ』と呼ばれる金色の瞳を持った一部のエルフ達によって、 人との関わりを避ける為の術式が施され、人はその場所を見る事も訪れる事もできなかった。
 しかしエルフ族の全てが、人との関わりを断絶しているわけではなく、 自ら望んでギュミルの郊外の町などに降りて、出会った人との関係を築いて行く者も居た。
 だがそんな関係の中で産まれた子供は、聖地を護るエルフ族には『禁忌の子』と蔑まれ、 血を穢した疎むべき存在として、アーブルヘイムには立ち入る事はけして許されず、 人の世界で生きていくしか道は許されていなかった。
 しかし半分とはいえ、エルフ族の血を持つ彼等は、やはり普通の人とも一線を画している者が多く、 人の世界でも好奇に晒され、そして異端として扱われ、やがては弾き出されてしまう者が多い。 当然ヴィルダも例外ではなかったからこそ、こうしてこんな森の奥で息を潜める事になったのだろう。 相反するはずのエルフ族と禁忌の子が、人からも遠ざかりこんな場所で一緒に居る理由は、 自ずと限られてくる。 彼もまたヴィルダと似た境遇を持つ者か、彼女と血の繋がった存在。 もしくはそれに近しい者。そう考えれば説明はつく、――が。

「随分遅かったな」
「ごめんなさい、あの」
 ヴィルダが言葉を紡ぐよりも先に、戸口で立ちすくむリーグの姿に気づいた青年は、 一瞬の驚愕の表情を浮かべてから、ヴィルダの手を取り自分の腕の中に引き込むと、 その紫色の瞳を鋭い警戒の色に変える。
「誰だ、貴様は」
 名を問う口調は無気味なほどの静けさをして、その威圧感と雰囲気にリーグは眉をひそめると、 口を噤んだままでその視線を睨み返しながら、ゆっくりと剣の柄に手をかけながら足を引き身構えた。
 なぜならば、不審をあらわにする青年の鋭い視線の奥に潜むのは、警戒というよりも寧ろ、

 殺気――

 その気を隠そうとするどころか、まるで見せつけるかのようにして、容赦なく向ける青年の視線の冷たさに、 リーグの右手が柄で小さく音を立てた。
「待って、私が無理に呼んだの」
 その音に気がついたヴィルダは、リーグの方へと身を捩り振り返ると、 森の出口を求めて森を彷徨っていた所を、自分から無理に泊まるように誘ったという事を、 青年の腕の中に捉えられたままで訴えるようにして説明した。その言葉を黙って聞いていた青年は、 リーグに向けていた目を細めると口端に嘲笑を浮かべた。
「国境警備の退屈しのぎの結果、不様に道に迷うとは、ギュミルの騎士団の質も落ちたものだな」
 まるでこの森の中へと踏み込む前の事まで、全て見透かしたかのような侮蔑の言葉に、 リーグは僅かに眉をひそめると、細く息を吐いてから、やれやれ、と肩をすくめてみせた。
「エルフ様ってのはどいつもこいつも人間がお嫌いのようで」
「わかっているのならさっさと消えろ」
「フェトーってば!」
 強い口調で見上げるヴィルダの視線を見下ろしてから、フェトーと呼ばれた青年は大袈裟にため息をつくと、 もう一度リーグを強く睨みつけてから、「勝手にしろ」と吐き捨てて、一人部屋の奥へと消えた。

 その後ろ姿を見送ってからヴィルダは振り返ると、険しい表情のままのリーグを見上げて、 首を横に振ってから頭を下げた。
「ごめんなさい、あの人、あまり人と話す事が好きじゃないみたいで」
「『みたい』じゃないだろ、あれは」
 ヴィルダの言葉に表情を崩したリーグは、肩をすくめてから部屋の奥を眺めると、 今来た道を振り返るようにしてヴィルダに背を向けた。 そこには既に闇に閉ざされた深い森が広がり、樹々の隙間から覗く天空から、 緋色の月と蒼の月が二つの影を足元に落とす。 その様子にリーグは目を細めると、後ろを向いたままで苦笑を漏らす。
「それで? 俺はどうすればいいのかな?」
「どうって、夜は危ないですから」
「それは夜の森で精霊に惑わされるか、この家であいつに殺されるか、 どっちなんだ?」
 そう言いながら肩をすくめる横顔に、ヴィルダは俯いて小さく首を振ると、 リーグの向こうに広がる暗い森を眺めてから、もう一度首を振った。
「フェトーは本当は良い人なんです。私みたいなのと一緒に居てくれるし」
 だから、とそのまま小さくなっていく声にリーグは頭を掻くと、 暗い森を見渡してから、目を伏せて深い息を吐いた。
 森は精霊の住まう場所、そして夜の森は人もエルフも立ち入る事のできない、 精霊達だけの世界。今、この森で最も異質な者は、 この森に住む精霊でもなく、ここに住むヴィルダ達でもない。
「招かざる者、か」
 そう呟いて苦笑したリーグは、ヴィルダに向き直ると、後ろ手に静かに扉を閉めた。
「姿の見えない精霊よりも、姿の見えるエルフの方が話はできるしな」

 緋と碧の二つの月は濃藍の天空高く昇り、月彩に浮かび上がる森が色を変えていく。


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