銀の月森

 夜風が窓を叩き冷えた夜気を連れてくる。
 小さく薪の爆ぜる音が響く部屋の窓辺には、いつもよりも多い数の人影が揺れ、 静まり返る森の奥に、小さく話し声が響く。
 片膝を立てて座り込んだ暖炉の前で、せがまれるままに話した町の話は、 時折見かける町の人達の様子と、他愛もなく退屈だと感じていた、国境警備の話くらいなもの。 それでもその言葉に何度も相槌を繰り返し、時折笑い声を上げる銀の瞳が、 暖かな橙光を映し目映い金色に光輝くのを、翡翠の瞳は目を細めて眺めていた。

 幼い頃に両親を亡くし施設で育った事。そして十年前に施設を出てからは、 ずっとこの森にフェトーと一緒に住んでいるという事。そんな身の上を夕食の合間に聞いたが、 こうしている様子は聞いた年齢――自分の五つ年下、という割には少し幼さを感じる。 しかし人の世界から、そしてエルフの世界からも離れ、 人里離れた森の中で暮らしていれば、それは仕方のない事なのかもしれない。
 そんな事を考えながら、リーグは窓辺に視線を向けると、 少し離れた窓際で一人、二人の様子を黙って眺めていたフェトーの視線と目が合う。 それはさっき感じた殺気などは微塵も感じず、 静かで穏やかな気配すら漂わせているのに、リーグは緩く瞬きをすると声をかけた。
「で、そっちの機嫌は直ったのか?」
「……」
 黙ったままで眉をひそめたフェトーの表情に、リーグは肩をすくめて首を振ると、 ヴィルダの呼びかける声に視線を戻し、再び笑い声を響かせる。 その様子を紫の瞳は、ただ黙って眺め続けていた。

* * *

 浅い眠りに落ちようとした耳元に、僅かに床を軋ませる静かな足音が届く。
 覚醒した意識を扉に向けて、そのまま瞼を閉じたままで息を潜めていると、 開く扉を軋ませて枕元に立つ人物の様子に、リーグは細く瞼を開いて苦笑した。
「夜這なら、もっと静かに入ってこいよ」
 苦笑しながら肘を引いて体を起こしたリーグは、 月明かりの差し込む薄暗い部屋に、暗い輪郭を滲ませた人影を見上げると、 ベットの端に座りなおしてから、自分の左手に視線を流してから、 目の前に立つフェトーの顔を見上げた。
「で、用はなんだ?」
「今すぐここを去れ」
「やっぱりそれ?」
 威圧的に従わせるかのような低い声に、翠の瞳を細めたリーグは、 黙って見下ろす顔を見上げてから、肩をすくめて嘲笑を浮かべる。
「ヴィルダの前では納得したフリしてたくせに、彼女には相当弱いんだな」
 感情の見えない紫の瞳に見つめられて、出会った時の殺意を思い出したリーグは、 首を横に振りながら窓の外を眺める。そこに広がるのは闇深く冷えた夜陰の森。月明かりだけが影を縁取り、 風が揺らす樹々のざわめき以外、物音は何も聞こえてはこない。
 今、ここから出て行くとして、一体自分はどれだけ保つだろう。 そうやって想像した結果に、肩をすくめたリーグは長いため息をついて、フェトーの顔を見上げた。
「心配すんなって、朝になったらとっとと出て行くから」
「それでは遅い」
「何だよ、ひでーな」
「森の外まではちゃんと案内する」
「もし嫌だ、と言ったらどうすんだ?」
 そう言いながら、リーグは枕元に立てかけた剣に一度だけ視線を向ける。 その様子にため息をついたフェトーは、首を横に振ってから窓際へと歩み寄る。 そのまま黙り込んでしまったフェトーの言葉の続きを待ちながら、 リーグは立てた片膝に肘をついて、その背中を眺めていた。
 暗い部屋で沈黙に支配された時間が、どれだけ流れたのか、 ようやくフェトーが口にした言葉は返事ではなかった。

「あんな風に笑ったのは、初めて見た」

 目映い閃光と、漆黒の森の闇。
 その光景は今も鮮明に覚えている。
 両親をなくし、友達をなくし、居場所をなくし、 生きている意味も、感情さえもなくした彼女にしてやれた事は、 辛い思い出を忘れさせる為に、過去の記憶に繋がってしまう物を、 その瞳に映るものを塞いで、視界から遠ざける事しかできなかった。
 そしてようやく笑顔を取り戻す事ができた時には、長い月日が過ぎていた。
 だが本当に笑えていたのだろうか、そして楽しいと感じていたのだろうか、 それには気づかないフリをしていた。このまま誰にも知られる事もなく、 誰にも邪魔される事もなく、ただ平穏な生活を続けていられたらそれでいいと。

 そう呟いたフェトーは静かに息を吐くと、 ゆっくりと振り返ってからその紫の瞳を伏せた。
「お前はヴィルダを特別扱いしなかった、だからなんだろう」
 そんな懇願に近い弱気な台詞に、リーグはバツが悪そうに頭をかくと、 フェトーに向けていた視線を自分の足元へと落とす。
「別に俺はただ、特別だとは思わなかっただけだ」
 普通だと思った、それだけの事。
 どれが普通で、どれが特別かなんて決めるのは、いつも周りが決めつける事なんだから。

 その言葉に目を伏せたまま、「そうか」とフェトーは呟くと、 緩く頭を振ってから、もう一度「そうだな」と繰り返した。
「ならば尚更、朝が来て、お前がヴィルダの目の前から去って行くのを見送る事になれば、 それはまた、辛い記憶になるかもしれない」
「だから今のうちに消えてくれって事か」
 必要のない物を、傷つける物を、あらかじめ排除しておくのは、 己の身を守る為に良く使われる事。そして彼はヴィルダの代わりにその役目を果たしているだけの事。 今、この森の中で最も異端な存在は、自分である事をリーグは思い出すと、 窓の向こうに見える森の陰を眺めて頭をかいた。
「そういう事は先に言えよな」
 そう言いながらリーグは苦笑すると、でもな、と言いながら立ち上がる。
「それは本当にヴィルダの為になっているのか?」
「……」
「それも気づかないフリかよ」
 その言葉にフェトーは小さくため息をつくと、ゆっくりと伏せていたその瞳を開いた。

 月明かりを背にした黒い影に浮かび上がるのは、目映く光り輝くような金の瞳。

「その目、お前まさか」
 『ハイエルフ』と言いかけてそのまま絶句したリーグに、 抑揚のない冷たい声が届く。
「ここから生かして帰した者は、今まで誰も居なかった、が」
 そう言いながらフェトーはもう一度背中を向けると、 肩越しに僅かに振り返って、独り言のように言葉を紡いだ。

「気づかないフリをする事が、幸せな事もあるだろう?」


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