銀の月森

 息を呑んだ翠の瞳に映るのは、金色の光と止まった時間。
 黙って見つめるフェトーの金色の瞳は、立ちすくむリーグの姿を、 冷ややかに映す。その冷たい視線に捕らえられ、身動きする事もできないまま、 絞り出すように呟いたリーグの言葉に、フェトーは微かに笑みを浮かべた。
「だから言っただろう」
 さっさと出て行けとな、と続ける言葉に、深く息を吐き出したリーグは、 ようやく思い出したかのように、後ずさり間合いを離すと 「そういう事も早く言え」と言いながら目を細めた。
 ハイエルフ――
 それはエルフ族の中でも、ほんの僅かしか居ない、 黄金色の瞳を持つエルフの事を指し示す。
 彼等の身体能力と精神力は、他のエルフとは比べ物にならない程に秀で、 一度に数多くの精霊の力を引き出す事はもとより、 太古の契約に基づき、精霊と直接契約を結ぶ事も可能であるという。 そしてその力をもってして、聖地ノーアトーンや、 争いを好まぬ者の多いエルフ族、その全てを守護し導いている者達である。彼等は血が穢れる事――精霊との契約の障害となる事――を最も嫌い、 人との関わりで産まれる者を蔑み、その者達を『禁忌』と呼んでいた。そう、彼等にとって、ヴィルダは最も卑しむ者であるはず。
「なんでハイエルフのお前が、ヴィルダと一緒に居るんだ?」
「お前が知る必要はない」
 その凍える様な瞳に射抜かれて、さっき感じた殺意とは違う別の圧迫感にリーグは目を細めると、 その瞳から目を逸らす事もできないまま、冷たく停滞する空間の中で、 時間だけが流れて行くのを感じていた。

 そんな空間を不意に切り裂いたのは、暗闇に響いた短い悲鳴。

 その声が誰のものか、リーグが気がついた時には、 黒髪が鼻先を掠め、後ろ姿が扉の向こうの闇に溶ける。 その一瞬の出来事に、しばらく唖然としていたリーグは、 姿の消えた暗闇を眺めてから、我に返ったように頭を振って、 枕元の剣を手に部屋の外へと向かった。廊下を挟んだ一番奥の部屋の前で、膝をついて部屋の様子を窺うフェトーの背中を見つけると、 リーグはその少し後ろで、息を潜めるようにして身を屈める。
「どうした?」
 呟くように尋ねる声に、なんの反応も示さないその背中に、 リーグは小さく息を吐いて首を振ると、見えない部屋の様子に耳を澄ます。微かに聞こえてくる足音は、部屋の中に数人の人が居る事を伝え、 乱れる足音は、それが「招かざる者」である事を容易に想像させる。 その様子にリーグが剣の柄に手をかけるのと同時に、 不意に立ち上がったフェトーは、わざと大きな音を立てるようにして、 乱暴に扉を蹴り開けた。 突然開いた扉に、薄暗い部屋の中でなお暗い人影が、 差し込む月明かりを遮るようにして揺れる。その影の向こうに見えた銀の髪に、フェトーは目を細めると、 行く手を遮る人影の手元に、月明りに冷たく光る切っ先が煌めいた瞬間、 フェトーはその身を沈み込ませ、床を撫でるように長い黒髪を滑らせる。 視界から消えたその姿を見失った人影は、不意に足元を掬われるように蹴り払われ、 蹈鞴を踏むように体勢を崩して、低い姿勢から繰り出されたフェトーの拳を鳩尾に受け、 短く呻き声をあげた。 そのまま膝を折るようにして倒れ込むその脇を、すり抜けるように通り抜けたフェトーは、 すれ違い様にその首筋に鋭く手刀を叩きこんだ。
 暗がりに帯を引く金の残像。それはほんの一瞬の出来事。
 部屋の隅に踞っていたヴィルダを背にして、一分の隙もない殺気を纏う黒髪のハイエルフと、 開かれた扉の前で、剣を携えたリーグの姿に、部屋に残る二つの人影は小さく舌打ちをすると、 間合いを取るようにして後ろへと飛び退く。その様子に僅かに目を細めたフェトーは、ヴィルダを抱えながら床を蹴る。 と、二人のいた場所に短剣が光の列を作り、飛び退いた足元を狙う鋭い切っ先は、 身を躱した黒髪の先を掠め空を斬った。

「すげーな」
 流れるような無駄のないフェトーの動きを、目の当たりにしたリーグは、 短く息を吐いてから鞘を握り直すと、固い金属の音をたてながら剣を引き抜いた。柄に埋め込まれた宝玉の血色の光と、抜き身の刀身の放つ冷たい銀の光が、 薄暗い部屋に光となって踊る。その様子に人影が気を取られた一瞬、 硝子の割れる音が闇に響き、黒髪と銀髪が森の闇に消えた。部屋を冷たい風が吹き抜け、短く「追え」と声を上げながら、身を翻した人影の前に、 砕けた硝子を踏みしめる音と共に、一筋の銀の光を携えた、翠の双眸が立ちはだかった。
「闇に紛れてって、ほんと悪人の常套手段だよなぁ」
「貴様はギュミルの軍人か。なぜこんな所に居るか知らぬが、邪魔をするな」
「あいにく人を助けるのが、俺の仕事なんでね」
 そう言いながら、リーグは片手で握った抜き身の切っ先を突きつけると、 目を細めてから肩をすくめ、目の前に立つ黒ずくめの男と、 間合いを取るように、ゆっくりと離れる人影に視線を投げる。
「でもまぁ、理由が納得できるものだったら、通してやっても良いけどな」
「貴様は知る必要のない事だ。そして邪魔をするというのなら死んでもらうまで」
「またかよ」
 ったく、どいつもこいつも、と呟いたリーグは、眉をひそめてから、軽くつま先で床を鳴らす。と、それを合図にしたかのように、振り上げられた一筋の光を、 固い金属音を響かせながら剣で受け止めると、 視界の端にもう一筋の光を捉え、受け止めた剣を押し戻しながら飛び下がる。銀色した切っ先が目の前を横切るのを、低い姿勢で見送ると、 振り抜いた勢いで、無防備に晒された背中に目を細めてから、 片膝をついたままの姿勢で、リーグは半弧の光を振り上げた。
「っと、実戦は久しぶりだからか?」
 動きを止められた剣越しに、顔を半分隠した相手と向き合いながら、リーグは小さく苦笑を漏らすと、 そのまま手首を返して、跳ね上げた剣の先を引き戻し、 沈み込むようにしながら、前へ深く踏み込んで切り抜ける。短く呻き声を上げて、男が倒れるのと同時に、 空間を切り裂く鋭い風切り音に、リーグは身を沈めながら振り返ると、 目の前を掠め飛んで行った光の欠片が背後で音を立てる。続けざまに部屋の反対側から放たれるのは、月明かりに微かに光るだけの短剣。 その光に幾度も翻弄されるように、床を転がり続けてから、 寝台の影に身を潜め、小さく舌打ちをしたリーグは、 寝台に掛かる白いシーツを眺めてから、剣の柄を両手で持ち直した。そして柄に輝く緋色の宝玉を掲げるようにして、剣を目の前に構える。
「うまくいくかどうか」
 そう呟いたリーグは、小さく、でもはっきり聞こえるようにして、 短い言霊を暗い部屋に響かせる。

 それは精霊の名を呼ぶ言葉。

「なに、まさかっ?」
 その言葉に驚いた声をあげる男に向かって、リーグは寝台の上の布を掴み、投げつける。 一瞬怯んでから放たれた短剣は、鈍い音を立てて白い布に突き刺さった。やがて暗闇に広がった白い布は、静かに床へと落ちていき、 その向こうから姿を見せた翠の瞳は、小さく眉をひそめながら目を細める。 その様子に薄く笑みを浮かべた男は、音もなく床に落ちた白い布の上に、 一面に暗紅色の花が散った次の瞬間、苦悶の色を滲ませた。
「そう、か。お前は、ただの人間だったな」
 布越しに突き刺さった切っ先は、真っ直ぐ男の体を貫き、 自分の血で赤く染まっていく布の上に、膝から崩れ落ちた男から剣を引くと、リーグは肩をすくめた。たとえ正しい言葉で紡いだ言霊でも、精霊の力を借りる事ができるのは、 古に定められた、唯一の共存者であるエルフだけ。
「俺の所に精霊なんて来る訳ねーだろ」

 それが世界の理であり、この世界の礎なのだから。

 剣に残った返り血を振り払ってから、リーグは苦し気に息を吐く男の傍に、 その顔を見下ろすようにしてしゃがみ込む。
「さてと、とりあえずお前らの正体から聞こうか?」
「……」
「早く手当てしないと、お前も、あっちでぶっ倒れている奴も死ぬぜ?」
「馬鹿め。もう、手遅れ、だ」
 そう言いながら、急にもがき苦しみ出した男の様子に、 リーグはその手に握られた、小さな瓶に気がつくと「しまった」と呟いてから、 慌てて後ろを振り返る。しかし少し離れた場所で倒れていた男は、自ら喉を掻き切り、事切れていた。
「屈するよりも死を選ぶ、か」
 そう呟いてから、既に息のない男を見下ろしたリーグは、男が身につけている装飾に目を向けてから、 瓶に刻まれた小さな紋様に気がつくと、それを手に取り月明りに晒すようにしてから、 思わず眉をひそめた。

 それは、隣国タラニスの紋章。
 そして彼はタラニスとは、決して関わりのなかったはずの、
 エルフ族の男――


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