銀の月森

 暗い森に響き渡った硝子の砕ける音と、月明りに煌めく欠片を纏って、 ヴィルダを抱えたフェトーは、窓から外へと飛び出す。 それを待ち構えていたかのように、屋根から飛び降りてきた人影に、 ヴィルダを背後に庇うようにして、フェトーはその身を躱した。掠めた切っ先が髪の先を散らし、頬に細く赤い線を描くのに、フェトーは小さく眉をひそめてから、目の前で剣を構えた男を睨みつけると、背後を気にしながらゆっくりと足を運ぶ。闇に光り輝く鋭い金色の瞳に、男は切っ先を突きつけながら、 二人は間合いを取るようにして、互いの隙を伺っていた。
「少し、離れていろ」
 小さく呟く言葉に、その金色の瞳を肩越しに見上げたヴィルダは、 強くフェトーの袖を握りしめてから、表情を強張らせたまま黙って後ずさる。 ヴィルダの気配が離れたのを感じたフェトーは、ゆっくりと自分の背中に手を回すと、 腰に下げていた、少し柄の長い一振りの曲刃を手にして、構える事なく刃先を下げた。そんなフェトーの様子に、憤ったかのように斬り込んでくる姿を、 微動だにせずに見据えた金色の瞳は、相手が間合いに届く前に、 曲刃を持つ右手を大きく振り上げる。固い金属の擦れる音が響き、その曲刃の柄は瞬時に長い棒状に姿を変え、 月明りに一筋の銀の弧を描いた。 振り上げられた剣を弾き飛ばしてから、フフェトーはそのまま長い柄に左手を添えると、 遠心力を増しながら、再び鋭い銀の弧を描いた切っ先は、 得物を失った無防備な男の体を、足元から切り裂いた。  そのまま仰向けに倒れ苦しみ暴れる体に、容赦なく刃を突き立てたフェトーは、闇に響いた断末魔の声を聞いてから、静かに後ろを振り返る。その視線に怯えたように身をすくめ、見上げていた瞳を固く閉ざしたヴィルダの様子に、 目を細めたフェトーは、頬に感じた微かな痛みに手で触れ、 なぞった指先を濡らす赤い色に、短く息を吐いてから、視線を逸らすようにして背を向けた。
 月明かりに照らされた深紅に染まった掌と、自分ではない他の誰かの血で濡れた体。それはいつかみた光景。
 フェトーは頬の血の跡を手の甲で拭ってから、 金色の瞳をゆっくと消して行く。だがそれが、一瞬の隙となった。
 背中に冷たい気配を感じ、振り向いた紫色の瞳に、一筋の銀の光が映る。 それは目を伏せ俯いたままのヴィルダの背後で、振り上げられた一振りの剣。
「……っ!」
 完全に防御するには間に合わない、そう判断したフェトーはヴィルダの肩を左手で掴むと、 強引にその体を手元に引き戻し、ヴィルダの居た場所に入れ替わるようにして、 体を反転させて滑り込む。そして相手に背を向けたままの姿勢で、ヴィルダの体を抱え込むと、 長刀を右手だけで横に構えただけの、不完全な防御姿勢をとった。 鋭い風斬り音が耳元を掠めていく。少し遅れて何かが倒れる音が聞こえたのに、フェトーは膝をついた姿勢のまま、 音の聞こえた背中の方を振り返ると、そこには剣を振り上げたままの姿勢で倒れている男と、闇に浮かぶ白い軍服に琥珀の髪を風に揺らして、 剣を振り下ろした翠の視線と目が合った。
「今のはちょっと危なかったんじゃないのか?」
「余計な事を」
「ったく、感謝くらい素直にできないのかよ?」
 フェトーの言葉に肩をすくめてから、剣を鞘に納めたリーグは、 足元に倒れている男を見下ろして、表情を強張らせた。そこに倒れていた、人間の男が持つ剣には、さっき見た小瓶と同じ紋章が刻まれていた。

* * *

「これはどういう事なんだ?」
 家の中に戻って、ようやく落ち着いたヴィルダを別の部屋に休ませてから、 フェトーとリーグは惨状の残る部屋の前へ向かう。 リーグはさっきみつけた小瓶を差し出しながら、そこに刻まれている紋章を見せつけると、 フェトーは僅かに眉をひそめてから、肩をすくめてみせた。
「そんな事を知ってどうする?」
「これが俺の仕事なんでね、今、俺は国境警備。ま、迷ったけど一応最中なわけだし」
 そう言って苦笑するリーグの言葉に、フェトーは返事をしないまま部屋の扉を開けると、 割れたままの窓から吹きこむ風にのって、まだ新しい血の匂いが吹き付ける。
「ただの物盗りだ」
「あのなぁ、人を馬鹿にすんのもいい加減にしろよ」
 真面目に答えろ、と眉をひそめたリーグに、 フェトーは黙って部屋の奥へと進み、窓枠に手をついてから空を見上げた。 その様子にリーグは小さく舌打ちをしてから、まだ血の跡の残る部屋の中を見渡して、 その背中に視線を戻すと口を開いた。
「ヴィルダは『禁忌の子』だという理由だけで、ここに居る訳じゃないだろう?」
 その言葉に見上げていた視線を降ろして、ゆっくりと肩越しに振り返ったフェトーは、 その紫の瞳に薄く金色を走らせた。
「なぜそう思う?」
「エルフにとっては禁忌の子は疎まれるかもしれない、だけど人間にとって禁忌の子は、 ただの好奇の対象にすぎないものだ。命を奪う理由があるとは到底思えない」
 澱みなく答えるリーグの言葉に、フェトーは肩をすくめると、 足元で微かに硝子の破片の音を立てながら、窓枠にもたれるようにして振り返った。
「なるほど、正しい答えだな」
「それに、タラニスとエルフが手を組んでいる。いつからあの国はエルフに友好的になった?」

 タラニス――
 それはギュミルと長年対立してきた軍事国家。
 長年繰り広げられて来た両国の対立の理由は多々あれど、 最も大きな対立の理由の一つに、人とエルフとの関係について、 双方の意見が大きく異なっていたせい。
 ギュミルは同じ大地に生きる者として、人とエルフの共存を望んだが、 タラニスはエルフの非合理的な考え方を否定し、そして精霊という不可視な存在は、 エルフによる幻惑にすぎないと主張し、 人による絶対的な統治こそが、大陸の平穏を導くとして、 エルフに対して、長年強行的な排除を繰り返してきた。 その結果、エルフは人間との距離を置くようになり、 精霊の力を利用しようとするギュミルを、計らずとも牽制し妨害する形となっていた。そんなタラニスの人間が、エルフと手を組んでいる理由は、 両者の間でなんらかの利害が一致したと考えるのが最も自然。 そしてもしそうだとするのなら、たとえこれがただの襲撃だったとしても、 いずれ国家の平和を大きく揺るがす事態が起きる、その前触れなのかもしれない。
「正直なところ、俺はそっちのほうが気になる」
 そう言いながら、表情を強張らせるリーグの言葉に、 フェトーは視線を足元へと落とすと、 床の上で月明りを浴びて煌めく、硝子の欠片を黙って眺めてから、 長く息を吐いて顔を上げた。
「あいつらは、アーブルヘイムの者じゃない」
「違うって。まさか『エーギル』の?」
 驚いたように呟いたリーグの言葉に、フェトーは「おそらく」と言いながら首を縦に振った。
「エーギルまで出てくるのかよ。一体お前らはなんなんだ?」
 呻くように呟いたリーグの言葉に、フェトーは眉をひそめ、 長い沈黙の時を、暗い部屋の中に停滞させてから、ようやく重い口を開いた。
「別に何もしてはいない。ただ静かに時が過ぎるのを待っていただけだ。 だが生きている事が、どうしても気に入らない者が居たという事だろう」
 まるで吐き捨てるような言葉に、リーグは小さく目を見開くと 「生きているだけで」と呟いてから、窓越しに見える暗い森へと視線をむけた。  生きているだけでいいと言われる者と、生きているだけで駄目だと言われる者。望まれているのは「生」と「死」という相反する事。だが、自分の命を他人に操られているという意味では、どちらも同じではないのだろうか。
 互いに押し黙ったままで、森の樹々を揺らす風の音を聞きながら、 しばらく闇に視線を彷徨わせていたリーグは、フェトーの言葉がどこまで真実なのか、 何を真意だと判断すべきか考えていた。わかっている事実はあまりに少ない。ならば自分の見た事、感じた事で判断するしか術はない。 さっきヴィルダをその命をかけてまでして、護ろうとしていた背中を思い出したリーグは、肩で息を吐いてから黙ったままのフェトーに視線を戻した。
「わかった。お前等『イーダリル』に来い」
「何だ、突然」
「この森に、こうして追っ手が来たのなら、これ以上ここには居られないだろう」

 ギュミルはタラニスとは、表面上は和解してはいるが、その思想や方針については、依然全てが対立する関係。 海の孤島のエルフの国『エーギル』は、荒れる海と切立つ岸壁によって、 船もつく事のない閉ざされた場所であり、その実態は何も掴めてはいない。 そして近年友好的に押し進めているという、アールブヘイムとの国交も、 親密であると言えるにはまだ遠く及ばない。テュール大陸の全ての国が、それぞれ独自に動いているだけの関係であるのならば、さっき襲って来たエルフとタラニスの人間、そのどちらからも逃れる為に最も都合のいい場所は、 ギュミル領内であり、そしてその首都イーダリルに他ならない。
 そう自分の考えを告げるリーグの言葉に、フェトーは黙って耳を傾けてから、 やがて大きくため息をついた。
「確かに理にはかなっているが、しかし」
「まぁ、あまり深く考えるなって、次にどこか落ち着く場所をみつけるまでの、 ちょっとした時間稼ぎくらいにはなると思うぜ?」
 そう言って笑うリーグの様子に、フェトーは呆れたように息を吐いて肩をすくめた。
「お前はよっぽどのお節介好きか、ただの馬鹿だな」
「なっ……ったく、お前はほんっと感謝ってもんを知らねぇな」
 渋面を作ってから苦笑したリーグの声を聞きながら、 フェトーは緩く腕を組むと、思考を巡らせるようにして目を閉じる。
 確かにここには、もう居られない。イーダリルに向かうにせよ、別の場所を探すにせよ、一旦この場から離れなければいけないのは明白。 一体誰の為にここに居たのか、何の為に身を隠して来たのか。だが進むべき道を、今決める事はできるのならば。自分で決めた道を、今はまだ進む事ができるのなら。
「お前の提案は悪くはないが、これ以上巻き込む訳にはいかない」
「もう遅いって、しっかり巻き込まれてる」
 そう言って笑ったリーグの声に、小さく首を振ったフェトーは 「そうでもない」と呟いてから、再び背を向けた。

 まだ何も始まっていないのだから。

 フェトーは暗い森の上、月を浮かべた空を見上げると、 遠い月白の空の夜明けが始まるのを、黙って眺めていた。


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