月白の風

 夜の闇に冷やされた大気が静かに漂い、天空高く二つの月が寄り添うように浮かぶ。
 数日ぶりの温かな寝具の感触に、誘われるまま眠りに落ちてしまいそうになるのを抑えてから、 ベットで白いシーツにくるまって、規則的に寝息を刻む琥珀色の髪を眺めると、 フェトーは空になっているもう一つのベットに視線を向けてから外に向かった。
 町外れの宿屋の、さほど多くない客室が繋がる長い廊下の先、 外のバルコニーに続く扉を静かに開くと、廊下に向って吹き抜けた風に長い黒髪が攫われる。その視線の先、月明かりの下に見慣れた後ろ姿を見つけると、 フェトーは緩く首を振ってからその隣に立った。
「まだ眠らないのか?」
「凄いね、星ってこんなにあったんだ」
 返事になっていない答えに、フェトーはヴィルダの視線の先を追い夜空を見上げる。漆黒の空には、まるで光を散りばめたように星が煌めき、 森の樹々の隙間から見上げていた狭い空とは違い、それは見渡す限りにどこまでも広がっていた。しばらく同じように空を見上げていたフェトーは、そのままの姿勢で視線を横に流すと、 夜風に銀髪を靡かせて、空を見上げる横顔に目を細めてから、ヴィルダに向き直ってため息をついてみせる。
「見惚れるのもわかるが、もう遅いから」
「うん」
「あまり夜気にあたると風邪を引くぞ」
「うん」
 ただ頷くだけの返事に呆れたように首を横に振ると、フェトーは羽織っていた上着を脱いでから、 ヴィルダを包むようにして、その細い肩に上着を被せる。
「これからはいつでも好きな時に見られるから」
 あの森に居る間にはできなかった事も、見る事ができなかった物も、 これからはどんな時でもどんな場所でも、いつでもいつまでも自由にできるようになる。それはこの大地に暮らす者なら、等しく与えられているはずの、ごく当たり前の事。
「だから何も心配はしなくてもいい」
 そう呟いたフェトーは「先に戻っている」と言い残すと、一人その場所を後にした。ヴィルダはバルコニーの手すりに手をかけたまま、遠ざかる気配に目を伏せて、 扉の閉まる音を背中越しに聞いてから、小さくため息を落とした。
 初めて出会ったあの日から、ずっと大事にしてくれる、 いつも護っていてくれる、絶対的な守護者として、一番近くに居てくれる。 でもそれは、自分自身のためなのか、他の誰かのためなのか、 時々わからなくなるのは、自分を見つめる瞳が、偽りの色をしているせいなのかもしれない。伏せた瞼の裏側に残像のように残るのは、白い光で埋め尽くされた世界。その光景にヴィルダは小さく首を横に振ってから、吐き出すように息を吐いて空を見上げた。
「やっぱり『私』じゃ無理だよね」
――そうかしら?――
 独り言のつもりで呟いた言葉に返事をした、良く知っているその声に、ヴィルダは顔を上げ辺りを見回す。しかしどこにも見当たらないその姿にため息をついてから、暗闇に向ってそのまま言葉を続けた。
「だって今の私は何もできないから」
 そう呟いたヴィルダは自分の掌を眺めると、掌を緩く握ってから目を伏せる。
「このままじゃ、どこに居てもいつになっても、ずっと迷惑しかかけられない。 前よりももっと危険な目に合わせてしまうかもしれない」
――もう、誰も傷つけないように、ひとりになりたい?――
 続けられた言葉を否定をするように、ヴィルダは大きく首を横に振ってから 「そういう事じゃなくて」と言葉を詰まらせる。
――あなたと一緒に居ようとするのは、彼の意思――
 たとえ願い望まなくても、護り大事にしようと願うのは彼の意思。
 それは今までと何も変わらないし、これからも何も変わらない事。 だから今まで通り、ただ静かに時が過ぎるのを待てば良いだけの事。 迷惑なのかそうじゃないのか、それは彼が判断する事。
 そう聞こえた言葉にため息をつくと、ヴィルダは握ったままの拳を眺めてから、声のする方に向き直って声をあげた。
「だったらせめて足手まといにならないようにって、そう思うのは駄目なのかな?」
 私を護ってくれる人を、私も護りたい。手を差し延べてくれる人の為に、自分から手を伸ばしてその手を掴みたい。 大丈夫だと誓ってくれた、そして大丈夫だと笑ってくれた、 そんな人達に大丈夫だと胸を張って言えるように。
 その言葉に応えを返さない気配に、ヴィルダは視線を落とすと、 自分の掌をもう一度見下ろしてから、その顔を上げて首を横に振った。
「本当はできるんだよね」
 呟いた言葉は周囲を静寂で包みこみ、大気は夜の闇を映して冷たく張りつめる。やがてため息をついたように、大気は静かに揺らぎ、 足元で小さく渦を巻くように吹いた風が、銀の髪を月明りに踊らせた。
――そう、ね――
 みんな誰でも護りたいモノはある。
 守りたい約束も、叶えたい望みもある。
――わかった――
 緩やかに掠めていった風に言葉を残して、 傍に居た気配が静かに闇に溶けて消えると、どこかで微かに鈴の音が聞こえたような気がして、ヴィルダは肩に掛けられた上着を握りしめた。

* * *

 月明かりだけの薄暗い部屋の中で、見上げた紫の瞳に映る月の高さは、 遠い黎明を示す。
 フェトーは窓にもたれるようにしながら、外を眺めていた視線を部屋の入口へと向けると、戻ってくる気配のない様子にその足を再び扉へと向ける。隣の枕元を通りながら、すっかり眠り込んでいるリーグの寝顔を見下ろすと、僅かに感じた違和感にフェトーは目を細めた。
 突然視界を淡い光が掠め、小さな鈴の音が響く。そして一瞬で視界が歪み体の自由が奪われた。
 ――それは幻惑の精霊の仕業。微かに漂う甘い香りに、さっきリーグの寝顔に感じた違和感の正体に気がつくと、見知った気配を背後に感じたフェトーは、拘束されたように重い体を捩って、視線だけでその姿を探す。
 体に絡み付く緋色の影は、脈動しながら淡い光を放ち、その影を辿った視線の先は、 窓辺で月明かりを背にした人影の足元へと辿り着く。視線の先に居た予想通りの人影にフェトーは眉をひそめると、苛立ちの感情の混じる声を上げた。
「これは何の真似だ? ヴァナディース」
「足止めに決まってんじゃない」
 その姿を月明りに晒して微笑むのは、薄紅色の巻き髪を二つに結んだ少女。
 ヴァナディースと呼ばれた少女の言葉に、眉をひそめたフェトーは、 すぐにその意味に気がつき思わず口を噤んだ。
 この少女はヴィルダの契約精霊。
 ヴィルダの言葉に従いその身を護る存在の彼女が、自分の行く手を阻むのは、 彼女の言葉とその行動の全てが、ヴィルダの意思であるということ。
「ヴィルダは何をしている?」
「それはひ・み・つ」
 肩をすくめて楽し気に笑うヴァナディースの様子に、 フェトーは睨みつけるような視線を向けてから、 守護する精霊がここに居ると言う事は、おそらく身に危険が及ぶ事ではないだろう。 と考えて緩く息を吐いた。
「大丈夫なんだろうな」
「あったり前でしょ、だからそっちの人みたいに、朝までぐっすり寝てていいわよ」
「やっぱりおまえの仕業か」
 そう言いながら向けた視線の先で、穏やかな寝息を立てるリーグの様子にフェトーは首を横に振る。初めて出会ってから今日まで、ずっと見定めるように観察してきたリーグの様子は、 時折ふざけた素振りを見せはしたが、訓練されている軍人らしく、常に周囲を警戒し気を張っていた。 だからこそ、あまりに無防備に眠りこむ今の寝顔に違和感を感じていた。
「いくら騎士とはいえ人間か。相手が精霊じゃ分が悪い」
「ああでもこの人は、って今はそんなのどうでもいいか」
 肩をすくめて苦笑したヴァナディースの、逆光に浮かんだ薄水色の瞳の輝きが増す。それに呼応するようにして、緩く確実に体を締め上げていく影と、 一段と濃密になった気の香りに、フェトーは逆らうように僅かに身じろいだ。
「悪く思わないでね」
 そう言いながらヴァナディースは、静かに眠りへと誘う言霊を口にする。
 だがその言葉はいつもよりもゆっくりと紡がれて、フェトーは手加減されているのを感じていた。僅かに身を捩りながら瞳に金色の光を浮かべる。が、それ以上の抵抗するのを躊躇った。
 いつもどんな時も離れることなく、側に居る、居なければならない。
 それは誰の意思だったか、そして何のためだったか。
 運命に抗い自由にさせてやりたい。
 だが決して手放す訳にはいかない。
 葛藤する二つの心の隙間を、周囲の闇が蝕んでゆくのを感じて、フェトーは眉をひそめると、 その闇から逃れようとして目を伏せる。その瞬間、一気に流れ込んで来た言霊の響きに、 翻弄されるようにして、そのまま意識を手放したフェトーは、崩れ落ちるように、深い眠りの淵へと堕ちていった。
 その様子を眺めてから、フェトーの前に舞い降りたヴァナディースは、 扉にもたれかかるようにして、あまりに穏やかな寝顔を浮かべる顔を覗き込む。 
「まったく、こういう時だけ幸せそうな顔しちゃってね」
 ヴァナディースはフェトーの前髪をゆっくり一度撫でてから、緋色の影を纏いその姿を闇に溶かした。

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