月白の風

 目を伏せれば思い出す色彩。
 翠と碧が白い光に切り裂かれ、紫空で冷たい金が緋の焔を宿す。 その色彩は決して色褪せる事なく、いつまでも心に影を落とす。

 空にかかる二つの月が低い空に傾き、人気のない町はずれに人影が一人佇む。 天空で寄り添う緋と蒼の二つの月。それは世界が紫に包まれる『闇紫の月夜』が近い事を告げていた。
 闇紫の月夜――空に浮かぶ二つの月は、年に数度、互いの姿を重なり合わせ、天空に漆黒の月を浮かべ、 緋と碧の光を月端に滲ませると、紫紺の光で世界を染めて行く。
 そしてそれは『精霊達の夜』の訪れ。
 紫に染まった世界では精霊の姿が闇に躍り、その力が世界と闇に満ちる。
 精霊だけに許された夜の宴は、天空に浮かぶ漆黒の月が大地に眠るまで続き、 迷い込んだ者は幻惑に囚われたまま、夢と現の狭間で夜明けを迎える。
 あれから十年余の時が過ぎ、何度も恐怖に怯えて過ごして来た夜が、再び世界に巡り来る。
 ヴィルダは周囲に目を配って人影のないのを確認すると、 冷たい空気を深く吸い込んでから月明りを見上げ、自分に言い聞かせるように「大丈夫」と呟いてから、 静かに『名前』を口にした。

 その声に呼応するようにして、ざわめいていた風の音が、静かに音を無くす。
 突然視界が金色に染まり、風もないのに木々は葉の雨を降らし、幾筋もの白銀の光が足元で渦を巻く。 自分の身の内に内包するモノ、それが滲み出してくるような感覚と、 幾千もの硝子の破片が突き刺さるような、鋭く冷たい痛みの感覚。
 そのまま意識は漆黒の闇へと堕ちていき、身体は白銀の光へと還るような不安定な感覚に、 ヴィルダは怯えるように固く目を閉じると、そのまま膝から崩れ落ちた。

「ヴィルダ!」
 少女の声にゆっくりと体を起こして、ヴィルダは肩で大きく息を吐くと、 傍に現れたヴァナディースの姿を、力なく見上げて首を振る。
「やっぱり……まだ」
 周囲を埋め尽くしていた光とざわめきは、まるで錯覚だったのかと思うほどで、 静まり返った穏やかな気配を見回してから、立ち上がろうとしたヴィルダは、 小刻みに震える足元を眺めて、歪んだ笑みを浮かべると目を伏せる。 そんな様子にヴァナディースはため息をついて首を横に振ると、 ヴィルダの手を取りながら肩をすくめた。
「ヴィルダはハーフで召還はもともと上手くできないんだし、 おまけに今は闇紫の夜も近いんだから、簡単にいかないのは当たり前。だから私がついててあげてるんじゃない」
 不機嫌そうに、でもどこか誇らし気に話すヴァナディースの言葉に、 ヴィルダはおもわず苦笑を漏らすと、力なく座り込んだままで深く息を吐いた。
 本来契約精霊とは、召還者であるエルフと、その召還に応じた精霊が、 互いの意思の合意によって定められるもの。 だがヴァナディースとヴィルダの契約は、召還によって成り立った契約ではなく、 ヴィルダがちょうどヴァナディースと同じくらいの歳の頃、 どこからともなく現れたヴァナディースが、自らヴィルダとの契約を望んで成り立った関係だった。
 その意図するものはなんなのか定かではないにせよ、ヴィルダを護るという意味においては、 ヴァナディースは契約精霊としての務めは果たしていた。
「そうだよね、私じゃ……」
「ま、そんなに心配しなくても、私が護ってあげるわよ」
「ヴァナちゃんはフェトーも護ってくれるの?」
「う……それがヴィルダの願いなら。仕方ないわ」
 そう言って肩をすくめるのは、自分よりも遥かに幼い少女の眼差し。 でもそれは遥かな時の中で、全てを見て来た遠い眼差し。
 そんな深い色した瞳に見つめられて、ヴィルダは小さくため息をつくと、 「ごめんね」と呟いて目を伏せた。

 その言葉に救われるのは自分だけ。
 いつも誰かに救われるだけで、自分は誰も救えない。


* * *



 一羽の碧い小鳥。
 幼い雛の碧い羽はまだ空を知らない。

 見上げた視線の先には蒼い空。
 無限のごとく広がる空を自由に飛び回る羽は、輝く日の光を浴び、爽やかな風を抱く。 だが時にその羽には、凍えるような冷たい雨や、強い風が叩き付ける事もある。 死の恐怖と隣り合わせの自由な世界。だがそこにあるのは可能性と力強さ。
 いつか自分のもとから飛び立つ日、その背中を押す事はできる。 最後に与えられるのは、庇護と引き換えにした永遠の自由。

 見回した視界に映るのは黒い鳥籠。
 その頑丈な檻に囲まれるその場所では、欲しい物はいつでも手に入り、何一つ不自由な事もない。 降り注ぐ全ての災厄を防ぎ、自分だけに誂えられた世界。そこにあるのは平穏と庇護。
 空を飛ぶ事を忘れた柔らかい羽先を切ってしまえば、いつまでも飛べない幼い雛のまま、 その身を護り続けるのは、自由と引き換えにした永遠の束縛。

――あなたはどっちを望んでる?――

 不意に聞こえたその問いに答えるようにして、闇の中を探るように伸ばした手が、 何かを捕まえた気がして引き寄せる。指の隙間から覗くのは碧い鳥の羽の先。
 掌の中でもがくようにして、指先をすり抜けようとするのを、 逃げてしまわぬように、ゆっくりと指先に力を入れる。 そして小さな命のぬくもりを感じたその瞬間。

 その掌を強く握りしめた。

 微かに響いた小さな悲鳴と、指先から零れ落ちる一筋の紅の雫。
 見開いた瞳に目映い光が差し込み、おもわずフェトーは眉をひそめると、 見上げた視界に映るのは、空に向けて差し伸べられた自分の腕。 その掌が握りしめられているのを眺めて、フェトーは深く息を吐くと、 拳を緩く開いて、そこに何の痕跡もない事に小さく首を振る。
 東の空低く昇り始めた朝日が真白な光を放ち、全てを支配していた闇を浄化するように包む。
 その光に身を晒すようにして、フェトーはもう一度静かに目を閉じると、 ゆっくりとため息をつきながら、シーツに沈んでいた体を起こし、 何かを振払うように頭を軽く振ってから、光が差し込む窓辺に視線を向けた。
 思い出すのは夕べの出来事。 それから自分が倒れたはずの場所と、今いるベットの位置に、 あの後苦労しただろうヴァナディースの様子を想像して、フェトーは乾いた声をあげて笑った。


* * *



「あー……やっぱり早いなぁ」
 消え始めた朝靄の漂う人気のない通りを、身体を引きずるようにして歩いていたヴィルダは、 ヴァナディースが呟いた言葉に、弾かれたように顔をあげる。 そして少女の指差す通りの向こうから、長い髪の人影が近づいてくるのに、 胸元を押さえて小さくため息をついた。
「ちゃんと言い訳考えてある?」
 そう言いながら苦笑を残してヴァナディースは姿を消すと、 入れ替わるように、真っ直ぐ近付いてくる姿にヴィルダは顔を伏せ、 その足音が目の前で静かに止まるのに、思わず身をすくめた次の瞬間、 身体を抱き上げられて、ヴィルダは思わずその顔を見上げた。
「あまり無茶をするな」
 呟く声を落としたフェトーは前を向いたまま、腕の中で見上げる視線に合わせる事もなく、 その様子にヴィルダは、小さく「ごめんなさい」と呟いてから目を伏せた。

 この人は、自分が何をしてきたのか全てわかってる。でも何も言わないのはいつもの事。 それは信じているからなのか、それとも別の理由があるのかわからないけど、いつも全てを許してくれる。
 そんな絶対的な庇護の安心感に包まれて、伝わる体温の心地よさと、 身体に残留した感覚とその疲労が眠りを誘い、たゆたう闇の中にヴィルダは静かに滑り落ちる。

 眠りを妨げないようにして、ヴィルダを部屋まで連れ帰ったフェトーは、 部屋のベットの端に片膝をついてから、そのまま静かにヴィルダの体を下ろすと、 その寝顔を真下に見下ろして目を細めた。
 その無防備な寝顔は信頼の証。残酷すぎる無垢な心の証。
 軋んだ音を立ててゆっくりとシーツに膝を沈めると、肩から零れ落ちた自分の黒髪が、 眠るその顔に影を落とす。フェトーはヴィルダの頬にかかる乱れた髪を払うようにして、 その頬に指を滑らせてから銀の髪を指で梳いた。
 それは差し込む朝日に照らされて、指の間から零れ落ちる銀の光となり、 その光に自分の心の奥にある、何かを見咎められた気がして、フェトーは顔を背けるように目を逸らすと、 深く息を吐き出してから、黙って部屋を後にした。


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