月白の風

 国境の町の人の流れは目紛しく、穏やかとは程遠い活気に溢れた通りは、 どこか居心地の悪ささえ感じるほどに、毎日違った様相を見せる。
 通りを行き交うのは、目的を携え行き先を見据える人々と、目的を失い行き先を見失った人々。 彼等は互いを牽制しながら、その両極の感情をこの町にいくつも落としていく。
 人目につく軍服を脱いで軽装に着替えたリーグは、この先必要な物を揃える為に店先を覗きながら、 行き過ぎていくそんな人々の会話にしばらく耳を傾けていたが、 少し離れた所を同じように歩く姿に視線を向け、ゆっくりと声の届く場所まで近寄った。
「なぁ、やっぱり一人で置いてくるのはまずかったんじゃないのか?」

 町に買い出しに出かける事をリーグが提案した頃、影が足元に短く落ちていたが、 まだヴィルダはベットの中で一人深く眠りこんでいた。
 ヴィルダにとって旅はもちろんの事、森の外に出て人に会う事は、 およそ十年振りくらいの事になる。道中見るもの聞くものその全てが、 産まれて初めて覗き込んだ万華鏡のように、目紛しく色鮮やかに変化し続けていたのだろう。 ようやく落ち着いて眠れる場所に辿り着き、柔らかな布の感触に触れた時、 一気に押し寄せた疲れがもたらした深い眠りを、甘受してしまったのは仕方の無い事。
 だが、ヴィルダの目が覚めるまで待とうと言うリーグの言葉に、 フェトーは考える間もなくそのまま置いて行くと答え、結果、二人は彼女を一人宿の部屋に残したまま、 こうして人混みの中を歩いていた。

「しっかし、お前がヴィルダを置いて行くとは思わなかったぜ」
「心配しなくても、ちゃんと見張りはつけてある」
「見張り?」
 心当たりが思いつかない様子のリーグの言葉に、フェトーは目を細めると、 人差し指を立てて短く言葉を呟く。 と、不意に辺りを暗闇が包み込み、全ての光と音が奪われる。 その様子にリーグが思わず身構えた次の瞬間、 何事もなかったかのように闇は光の中に掻き消え、通りは人々の喧噪で埋め尽くされた。
 そんな驚く間もない程の一瞬の出来事に、呆気にとられたまま立ち尽くしていたリーグは、 目の前で口許を緩めるフェトーの顔を眺めると、 今、何が起きたのかを理解して肩をすくめた。
「あーなるほどね……しかしこういうのはできれば口で説明してくれ」
「一番わかりやすい方法だろう?」
「いや、見えないものに襲われるのって、マジで焦るから」
「なんだ? お前も『見た』事はないのか」
 そう言いながらフェトーはリーグの顔を眺めると、 その翠色の双眸を暫く見つめてから、小さく息を吐いて視線を外す。
「『あの』ギュミルの騎士なら一度や二度は見た事があるのかと思っていたが」
「んなもんあるわけねーだろ、今みたいに『感じる』事は何度かあったけどな」
 人間にとって精霊とは、現実の世界に存在する自分達よりもむしろ、 お伽噺の中に登場する者達に近い存在。 まるで夢の中で会った気がしたり、どこかで誰かに見られている気がしたり、 話しかけられている気がするという様に、朧げで不安定な感覚でしか感じる事はできない者達。
 確かにそこにいるはずの彼等を、視覚で捉えて「見る」のか感覚で捉えて「感じる」のか、 それが人とエルフの大きな違い。視覚と違って感覚でしか感じられないという事は、 鋭敏な感受性の持ち主か、気配を探る能力に長けた者にしか、その姿は「感じ」られないという事。
 その事実が精霊という存在を、夢現の狭間に存在する希薄な者として定義される理由の一つ。

「よーするに、精霊の守護がかけてあるって訳?」
「ああ、それもかなり強力でうるさい奴がな」
 一瞬どこからか甲高い批難の声が聞こえたような気がして、リーグは辺りを見回してから首を傾げると、 頭をかくようにしながら両手を頭の後ろに組む。
「せっかく町を案内してやろうと思ったのになぁ」
「別に町はここだけじゃないだろう」
「まぁそうだけどさ。あーあの様子だどイーダリルじゃもっと大騒ぎしそうだ」
 その言葉にフェトーは思わず目を細めると、 その時繰り広げられるであろう様子を想像して、肩を震わせるように苦笑しているリーグに向き直る。
「お前はイーダリルに戻ったらどうするんだ?」
「お、なんだなんだ? 観光案内でもしてほしいのか?」
 意外な事を聞かれたかのように、肩をすくめて笑う顔に、フェトーは首を横に振ると、 言葉を選び直してから、もう一度同じ事を聞いた。
「『帰還したら』どうすると聞いている」
「あぁ、そっち、ね」
 吐き出すようなため息をついてから、リーグは再びフェトーに背を向けると、 組んでいた両腕をほどきながら、空を仰ぎ見るようにして背を伸ばした。
「ま、その時になったら考えるさ。今はお前達に付き合うって決めたんだし」
 そう言ってから肩越しに振り向いて笑うリーグの顔を眺めると、フェトーは「そうか」と小さく呟いて、 その紫色の瞳を静かに伏せた。

 今ならまだ間に合うかもしれない、と誰かが囁く声が聞こえた気がした。


* * *



 誘われて辿り着いたのは街外れ。
 夜風に揺れる木々のざわめきだけが響き、二つの人影が月明かりに長く影を伸ばす。

「で、用って何だよ?」
 いつまでも黙っている背中にしびれを切らしたリーグは、 二人の間に重苦しく停滞する空気にため息をつく。 その声に黙って空を見上げていたフェトーは、ようやく口を開いた。
「もうすぐ闇紫の月夜か」
 見上げる視線の先、流れていく雲の隙間から覗いているのは、重なりはじめた月端を薄紫に染める蒼と緋の月。 それは精霊達の宴の闇夜が近い事を告げる。
 月の女神の碧い月と運命の女神の緋の月が、大地の女神に捧げる宴を照らす闇の月となり、 闇紫の月明かりで大地を染めるその夜は、 遠い過去の昔から当たり前のように続いて来た夜。

「それがどうかしたのか?」
 リーグは首を振りながらため息をついて、 フェトーと同じように空を見上げて聞き返すと、やがて返事が風に乗って届けられる。
「お前は運命というものを信じるか?」
「はぁ? いきなり何の話だよ」
 思いもよらない言葉にリーグは間の抜けた声をあげると、 後ろを向いたままの背中に首を振る。
「ではこんな話は知っているか?」
 そう前置きしてフェトーが静かに語りはじめたのは、古い古い昔話。

 それは月の女神と運命の女神の物語。

 耳を傾けるその物語の向こうには、幼い自分に語りかける優しい声の記憶。
 包み込むような柔らかな日射しの中で、それはたおやかに髪を撫でる風の音のように、 耳元で囁くように通り抜けて行くその声は、一体誰の声だったのか。
 だが思い出そうとしてもどうしても思い出せない事に、 リーグは自嘲の笑みを浮かべると、緩く頭を振ってから顔を上げた。
「その『ノルニルの伝説』がどうかしたのか?」
「なんだ知ってるのか?」
「いやいや、この話を知らない奴を探す方が大変だって」
 それは幼い頃に一度は誰もが聞くお伽噺。
 月の女神と運命の女神の争いと、世界を創造した大地の女神の物語。
 全ての生命の源である、大地の女神の力を巡って、 その物語に登場する月と運命の二人の女神は、何度も争い世界を闇へと落としたという。
 やがてそれは遠い過去の歴史の中で、ただの伝説に過ぎなかったもの、 紛れもない真実だったもの。そんな嘘も真もその全てにおいて、 二人の女神の存在が争いの元凶と呼ばれるようになり、 女神達を忌み嫌う者と畏れ崇める者とを産み出していった。

「強大な力というものは、神でさえも狂わせるんだろう」
「まぁ、そういう物語だからなぁ」
「しかし力なんてものは利用されなければ価値がない。欲しがらなければ存在する意味もない」
 そう続けるフェトーの言葉に、思わず黙りこんだリーグ瞳の色が翳る。

 利用するモノとされるモノ。たとえそれを望んでいなくとも、そうする事でしか生かされぬ力。
 どんなに強大な大地の女神の再生の力も、豊かな場所では必要とはされない。
 争いの続く大地で、理不尽に命を奪われ、貧しい暮らしの中で、常に餓え、 世界を憂う人々が、豊かな新しい世界を望み縋る。 そして願いが満たされると、大地の女神は再び眠りにつくようにして、人々の記憶の中から消えて行く。
 やがて人々が欲しがり大事にしていくものは、権力という存在と、地位という名誉と、 黙って言う事を聞く血統書のついた操り人形達の名前。 だが人形には不必要だと切り捨てられた感情と、邪魔だと閉じ込められた心はどこへ向うのか。
 それを理解できるのは、一度は望まれ、そして今は望まれなくなった者だけなのかもしれない。

「だが、たとえこの世の全てを敵に回したとしても、利用される為にだけ産まれて来たのではないと。 そう思って、感じて、自由に生きて行きたいと願うのは、身勝手な願いなのだろうか?」
 背中を向けたままのフェトーの背中を、眉をひそめて睨みつけるようにしていたリーグは、 その言葉に一瞬目を見開いてから、吐き出すように息を吐いた。
「それは誰の……まさかヴィルダの事なのか?」
 目を伏せたままでゆっくりと振り返ったフェトーは、顔を上げてから瞼を開く。
 そこに輝く暗く深い瞳の色に、リーグは緩く首を振った。

 世界を巻き込む騒乱の炎と、打ち砕かれる人々の希望。
 世界を無に還す粛清の波と、全てを失った人々の慟哭。
 そして世界と人と全てを、永遠に包み込む闇紫の月明り。

「それが、これから行く未来に待っているものであり、そして変えられない運命だとしたら、 それを知ってもお前はまだ、一緒に行くと言えるか?」

 やがて月明りが厚い雲に遮られ、辺りを闇が包み込むと、 冷たい雨が大地を濡らし始める。


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