月白の風

 降り出した雨は、大地を黒く染め周囲の物音をかき消して行く。
 立ちすくんだままの二人は、雨に濡れて行くのもそのままに、 互いにどちらかが声をあげるのを、ただ黙って待っていた。

「それはどういう、事だ」
 長い沈黙の後、ようやく吐き出すように声を漏らしたリーグの言葉に、 フェトーは小さく首を振ると、雨に濡れた髪をかきあげてから言葉を返す。
「お前は本当に彼女をイーダリルに連れて行くつもりなのか、と聞いている」
「ああ、頼るところがないのなら少しの間だけでもって、 だからこそ今こうして一緒にここまで来たんじゃないか」
 今更何を聞いている、と言った風に肩をすくめてみせるリーグの様子に、 フェトーはまるで嘲笑うかのように苦笑を漏らす。 そして次にその口から発せられた言葉に、リーグはおもわず耳を疑った。
「彼女の持つ力を巡って、それを利用しようとする者と、排除しようとする者が争いを引き起こす。 そんな生きているだけで災厄しかもたらさない者を、 王都を護るべき騎士であるお前が本気で招き入れるつもりとは、正気の沙汰とは思えないな」
 その言葉に、リーグはフェトーに掴みかからんばかりに詰め寄ると、 冷ややかに見下ろすそのその顔を睨み上げるようにして、リーグは声を荒げた。
「今なんて言った!?」
「……世界に災厄をもたらすだけの呪われた存在。それがヴィルダだ」

 そう言い放たれた言葉にリーグは思わずフェトーの胸倉を掴む。 鋭い翠の視線が見上げたその顔が眉をひそめるのと同時に、不意に弾けた水飛沫が、 胸倉を掴んだ腕を強く叩くのに、リーグは身を引くようにしてその手を振りほどいた。
「ちっ、精霊かよ……」
「そんなに気に障ったか?」
「あたりまえだ! 彼女が災厄しかもたらさないなんて、なんでそんな酷い事が言えるんだ?  お前とヴィルダは……そう、互いにとって一番大事な人じゃないのかよ!?」
 その言葉にフェトーは小さくため息をつくように息を吐くと、 険しい表情のままで見上げるリーグを見下ろした。
「お前は何か勘違いをしているかもしれないが、私は彼女の『監視者』にすぎない。 彼女がこの世界に、いや我が国アーブルヘイムに災厄をもたらさないように、 皇王アルファズルの命により、彼女を監視するのが私の本来の使命。 そしてもし彼女が災厄を導こうとする時には、その罪を断罪するのも私の務め」
 澱みなく答えるフェトーの言葉に、リーグは信じられないものを見ているかのように、 唖然とした表情でその顔を見上げると、掠れた声を漏らした。
「十年も一緒に居て、ただ監視していただけだというのか?」
「そうだ」
「じゃあなぜあの時、お前は身を挺してヴィルダを庇おうとした?」
「彼女にはまだ利用価値がある」
「っ!……」
 その答えにリーグはおもわず言葉を失うと、 力なくその場から後ずさるようにして足を引いた。
「そうか……お前はハイエルフだったよな」
 エルフ族にとって、特にハイエルフにとって、 どんなに大切にしているように見えても、ヴィルダが禁忌の子である事には変わりはないという事。 所詮、フェトーも多くの者達と同様に、彼女を道具としか見ていないという事実を突きつけられて、 そのまま俯き黙り込んでしまったリーグの様子に、 フェトーは静かに言葉を続ける。
「この先一緒に進むのなら、お前も真実を受け入れる必要がある。 理想を語るのは容易い事。現実から目を逸らす事も容易い。そしてリーグ、お前ならどうする?」
 その言葉に、今問われているのは国を護るか一人の人間を護るかの選択。 彼等に関わるのはギュミルの騎士としてか、リーグ・アインヘルヤルという人間としてなのかという事。 その判断を問われている事に気がつくと、リーグは両手の拳を握りしめた。

 大多数の人の命を救う為に、たった一人の人間を犠牲にする事。 それが戦場ならば良くある事なのかもしれない。 だが今は平和な時代、なんの争いもないこの世界で、 いつ起きるのかわからない、何も起きないかもしれない災厄の為に、 犠牲を強いるというのは正しい事なのだろうか。

 リーグは吐き出すようなため息をついてから、何かを振り払うように首を振ると、 濡れて張り付く髪を払ってから、黙って見下ろすフェトーの顔を見上げる。
「それが真実だと言われても、俺にはよくわからない。 だけど誰にも自分の存在を求められないのは辛いって、それだけはわかる。 そして自分が一番信じている人に、裏切られる気持もな」
 最後は吐き捨てるように呟いたリーグの言葉に、 フェトーは僅かに表情を歪め「そうか」と呟く。 月明りもない闇の中で、町から零れる薄明かりに照らされた顔を見上げたリーグは、 感情の見えないその表情に小さくため息をついた。
「ヴィルダが、その災厄をもたらさない可能性はないのか?」
「可能性は、ないわけではない」
 その言葉にリーグは握りしめたままの拳をほどくと、 その意味を自分自身に納得させようとして、何度か頷いてから顔をあげる。 その顔にフェトーは息を吐くようにして呟いた。
「今すぐに答えるのは無理だとしても、決断は早い方がいい」
「……わかった、とりあえず戻ろう。ヴィルダが待っている」
 そう言いながら町へと歩き出したリーグが離れて行くのを見送りながら、 不意にフェトーはその背中に向って小さく言葉を呟く。 その声に驚いたかのように振り返ったリーグに、 フェトーは目を細めると静かに問いかけた。
「お前は、ヴィルダに今の話を聞かせる気はあるか?」
「なっ……言えるわけないだろうっ!」
 再び声を荒げたリーグに、フェトーは肩をすくめてみせると 「そうか、ならよかった」と呟いてから目を伏せた。

「私も死ぬまで打ち明けるつもりはないから」


* * *



 夜が更けた頃、ずぶ濡れで戻ってきたリーグとフェトーの様子に、 ヴィルダは呆れたようにため息をつくと、慌てて暖炉の火を大きくしてから、 乾いた布や温かい飲み物を用意したりと、甲斐甲斐しく二人の世話をする。
「もう、こんなに濡れるまで何してたの? 風邪引いたらどうするの」
「大丈夫だから、心配いらない」
「またそんな事言って、隠してもフェトーの事はすぐにわかるんだからね」
「……そうか、そうだな。心配かけてすまない」
「ほらもう、リーグさんもこっちに来ないと駄目だよ」
 扉の前で呆然と立ち尽くしたまま、 そんなヴィルダとフェトーのやりとりを眺めていたリーグは、 ヴィルダの声に我に返ると、暖炉の傍へと手招きするヴィルダに首を振って、 濡れた体を拭く事もせず、再びマントの襟元を合わせた。
「ああ、俺はいいよ。ちょっと出かけてくるから」
「えっ、今からまた出かけるの?」
「ああ『少し待っていてくれ』」
 その言葉に怪訝そうに首を傾げたヴィルダに、リーグは笑い返すと、 ヴィルダの肩越しに視線をむける紫の瞳が、僅かに目を細めてから黙って背中を向ける様子に、 そのまま片手を軽く上げてから、後ろ手に扉を閉ざした。

 雨に打たれながら人気のない通りを歩き続けたリーグは、 やがて大地の裂け目を望む高台へと辿り着く。 切り立った崖の上に張り巡らされている手すりにもたれかかるようにして、 リーグはその暗く深い谷底を静かに見下ろしながら、 白い軌跡を描いて落ちてゆく雨粒をぼんやりと眺めていた。
 目の前に広がるのは、見渡す限りに続く巨大な闇の淵。 まるで自分の行き先を遮るように、そして全てを呑み込むように、 ただ暗くそこに横たわる。
「なんだよあれ」
 ヴィルダの前で、まるで何もなかったかのように振る舞うフェトーの様子に、 リーグはついさっき自分が何を聞かされたのか、思わず口を滑らしそうになったのを、 取り繕うかのようにして外に飛び出して来た。
 とりあえず今は冷静になるべきだ、と思いながら、リーグはため息をついて無彩色の空を見上げると、 最後にフェトーが呟いた言葉を思い出していた。
「『お前が守護者になってくれるのなら』か」
 それは監視者で執行者としてしか、彼女の傍に在る事のできないフェトーの代わりに、 本当の意味での守護者として存在して欲しいと、 そして災厄という運命を背負わされた彼女を、支えて欲しいと願う言葉。

 あの二人が持っている深い闇。その全てを理解できるとは思えないけれど、 何かできる事はないのか、と感じたのは事実。 だが確かにあそこは本来自分が居るべき場所ではないのも事実。 では自分が居るべき場所は一体どこにあるというのか。
 イーダリルに帰るべき屋敷はある、騎士団にも戻らなければならない、 でもその場所すら、本当に自分の居てもいい場所なのかわからない。 そんな自分に一体何ができるというのか?
 たとえ今はまだ何の罪ももたない者だとしても、国を護る騎士として、 この国に災厄をもたらすかもしれない者を、ここで断ち切り国外へ追放するのか、 災厄を導くというその運命から、守護者としてその身を護り、共に逃れ続ける覚悟を持つのか。

 そんな自問を何度も繰り返しては、リーグはため息をついて降り続く冷たい雨を見上げる。
「ヴィルダは知らないんだよな」
 フェトーの語った真実。その言葉の意味。
 互いに信頼しあい、互いを護る為に共に生きて来たと思っていた人間が、 ただの監視者でしかなったというその真実は、彼女にとってどんな意味を持つのか。
 リーグは小さく眉をひそめると、降りしきる雨音の中に遠い昔の記憶を重ねた。
 それは雨の中一人立ちすくみ濡れたまま、 幼い掌を握りしめていた、今はもう遠い昔の記憶。
 あの頃は誰かが手を伸ばしてくれるのを、誰かが救ってくれるのを待っていた。 こうしてれば誰かがきっと、と信じて、 吹き付ける雨だけを纏って、いつも誰かを求めていた。
 でも今はもう、そんな手はどこにもない事を知っている。 自分の手は誰にも届かないと。
 でも――

「似合わないな」
 そう呟いてリーグは小さく笑うと、自分の掌をただみつめていた。


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