月白の風

 窓を叩く雨音が薄暗い部屋に響いて、 静まり返った部屋で、深い紫の瞳はただ闇を見つめる。
 不意に窓辺に微かに揺らめいたのは、暗闇に滲むにはあまりに異質な色彩。 その色にフェトーは小さくため息をつくと、隣の寝台に眠るヴィルダの顔を見下ろしてから部屋を出て、 薄暗く長い廊下の先、外のバルコニーへと続く扉に向った。
 人々が寝静まった夜更けの、冷たい雨が叩き付けるバルコニーには、 誰も居ない事は容易に想像がつく。だからこそフェトーは黙ってその扉を開け放つと、 雨に煙る暗闇の中を、何かを探すかのように視線を彷徨わせた。 そして夕べヴィルダが立っていたのと同じ場所に、 人影が浮かび上がるのをみつけると、フェトーは開け放った扉にもたれて緩く腕を組んだ。
「なんだ、また説教か?」
 憮然と呟く声に、その人影はゆっくりとフェトーへ向って歩み寄る。 やがて眉をひそめる目の前に立ったのは、蒼い髪の青年だった。
 しかしその青年は降りしきる雨の中に立っているというのに、 髪の一筋も濡らす事なく静かにそこに佇む。それは彼が人でもエルフでもない存在、 精霊である事を示していた。
「相変わらず追いつめるのが得意なようで」
 その言葉にフェトーは小さく苦笑を漏らしてから、 その青年の姿をした精霊の肩越しの暗闇に視線を向けると、 自分に向けられた鋭い翠の双眸を思い出して目を伏せる。
「憎まれる役なら慣れている」
 そう言って肩をすくめたフェトーの言葉に、青年は首を横に振ると、 見上げるその漆黒の瞳を僅かに細めた。
「いいえ、ご自分の事をですよ。我が主」
 そう言いながら蒼い髪の青年――『バルドル』はフェトーの顔を下から覗き込むようにして、 眉をひそめるフェトーの額の真ん中に指を当てて苦笑する。
「ほら、そんな顔して、悩んでいるのバレバレじゃないですか」
 そんな手をはね除けるようにして振り払ったフェトーは、 見上げるバルドルの視線から、目を逸らすようにして顔を背けた。
「私が監視者なのは事実だ」
「そうですね、しかし事実と真実は時に異なるものですから」
 まるで全てを見透かすかのような漆黒の瞳と、 穏やかな微笑を浮かべたバルドルの顔を、フェトーは目を細めて見下ろすと、 大袈裟にため息をついてから首を振った。

 フェトーとバルドルが契約を交わしたのは遥かに遠い昔の事。 それから随分長い月日を共に過ごしてきたからこそ、 彼はフェトーという人物の事を最も理解し、同時に心の奥を見透かすような言動をもする。 だからこそ、フェトーはバルドルに対して、 深く信頼を寄せると同時に、強い拒絶という矛盾した感情も持ち合わせていた。

「お前のそういうところが気に入らない」
 その言葉に肩をすくめたバルドルが、 腕を組むようにして顎先に片手を当てると、 降りしきる雨の粒が、宙に浮かんだままいくつもの小さな水の玉になる。 そして視線のあった紫の瞳にバルドルが微笑んだその瞬間、 雫はフェトーの目の前で弾け飛びその前髪を濡らした。 その濡れた髪を黙って指先で撥ねる様子に笑いながら、バルドルは言葉を続ける。
「なに言ってるんですか。さっきも私が止めなかったら一発ぶん殴られてる所でしたよ?  なにもあそこまで彼に反感を持たせなくても」
「ただ、はっきりさせただけだ」
「あなたが憎しみを向ける相手だと?」
 言葉の続きを先に言われて、開きかけた口を噤んだフェトーは そのまま頷くようにして首を縦に振る。 しかしフェトーとは相反するようにバルドルは首を横に振ると、 その漆黒の瞳の深さと声色を静かに落とした。
「確かに貴方は監視する者であり、執行する者でもある。 しかしそんな貴方の傍に彼の様な者を招き入れるという事は何を意味するのか、 わかっているんですか?」
 その言葉に黙ったまま返事をしないフェトーの様子に、 バルドルはその漆黒の瞳を細めながらフェトーの顔を見上げると、小さく首を振ってから背中を向けた。
「貴方は自分が思っているほど強くはない」
 そう言い残すとバルドルはその姿を闇に消し、暗闇の中に一人残されたフェトーは、 冷たい雨の降りしきるバルコニーに背を向けると、目を伏せてから小さく苦笑を漏らした。

「そんな事、自分が一番よくわかっている」


* * *



 降り続いた冷たい雨が止んだのと同じ頃、空を覆っていた夜の帳が開くと、 街の検問が開くのを街の内外で待っていた人々が、 次第に通りを埋めていき、次第に昨日と同じ喧噪が戻ってくる。 それはこの街に暮らす人々にとって、いつもと同じ当たり前の日常の始まり。
 フェトーは通りの向こうを見つめて立ちすくむ細い肩に手をかけ、 その肩越しに溢れる朝の光に目を細めた。
「あいつには別にやらなきゃいけない事があるんだろう」
「でも待ってろって言ってたから」
 縋るように見上げる視線に、フェトーはゆっくりと首を横に振ると、 肩に置いた手に僅かに力を込めてから、静かに呟いた。
「彼も『また』巻き込むのか?」
 その言葉に目を見開いたヴィルダは、小さく肩を震わせて俯く。 掌から伝わる声にはしないその慟哭に、フェトーは黙って空を見上げると、 宥めるようにしてその肩を抱き寄せた。
「大丈夫『今度は』傍に居るから」
 同じ過ちは繰り返さない、とそう誓ったのはいつの事だったか。 記憶を辿るのも今更な気がして、 腕の中で見上げるヴィルダの銀と碧い瞳の色に、フェトーは目を細めると笑ってみせた。
「行こう」
「……うん」
 陽の光に背を向けた二人は、足元に伸びる暗い影を踏みしめ歩き出した。

「こらーっ! そこの二人待てぇーっ!」

 通りに突然響き渡った聞き覚えのある声に、驚いたようにしてフェトーは振り返ると、 人波の向こうの通りの先に、朝日を背にした琥珀の髪と翻る翠のマントが視界に映る。
 それは一日の始まりの清浄な光の中で、 力強さと眩しさを見せつけるような色をして、その姿にフェトーは思わず目を細めると、 知らず口許に笑みが浮かぶのを、隠すように足元に視線を落としてから苦笑を漏らした。
 大声に一瞬驚いたように動きを止めていた通行人達は、やがて何事もなかったかのように再び動き出す。 立ち止まったままの二人の前に、人波を避けてようやく辿り着いたリーグは、 フェトーの前に立つと、眉をひそめるようにしてからため息をついた。
「ったく、待ってろって言っただろーが」
「そうか、戻って来たのか」
「なんだよ、戻って来たらマズかったのか?」
 肩をすくめるリーグの様子に、フェトーは一小さく首を振ると、 一度瞼を伏せてからリーグの翠の瞳を金の光で見据えた。
「いいのか?」
「ああ、でも勘違いするなよ。俺はヴィルダの為に一緒に行くんだ」
「そうか、それならいい」
 そう呟いて目を閉じたフェトーは、そのまま背を向けると、 喜びの声をあげるヴィルダの声を聞きながら、 二人から少し距離を置くようにして、一人その場から静かに離れた。
「よかった。信じててよかった」
「信じて、た? 俺の事を?」
「そんなの当たり前じゃない」
「そっか」
 睨みつけるようにしながら、それでも笑顔で答えるヴィルダの言葉に、リーグは一瞬目を見開いてから、小さく息を吐いて笑ってみせると、 そのまま目を細めて空を仰いだ。

 雨に洗われた世界に、朝の光りと共に溢れる鮮やかな色が、 無彩色の世界を彩って行く。
 閉じた暗い世界を眩い光で染めていく朝日は、瞳の奥で微かに痛みを残して、 ため息をついた彼は静かにその目を伏せた。


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