黒き残月

 アクラを後にしてから数日。 リーグ達は幾多の旅人達が踏みしめ、大地に細く刻んだ街道を北へと向っていた。
 テュール大陸には大地の裂け目を境にして、南方には砂岩の混じる乾いた土地が広がり、 北方には緑の多い穏やかな平野が大地を覆う。 そしてその平野の北東。ギュミルの首都イーダリルを見下ろすようにして、 一年中頂に白く雪を積もらせた山並が連なっていた。
 見渡す限りに広がる平野の遠い地平線に、霞んで見えていたその白い山並みは、 やがて鋭い稜線で見上げる空を切り取るようにして、三人の行く手に聳え立つ。

 アールブヘイム聖地ノーアトーン。
 白き清浄なる大気に満たされたその場所こそ、ハイエルフが守護するエルフ族の聖地。

 その聖地を見上げる、山の麓の街『ユムカアッシュ』に辿り着いたのは、 空から降り注ぐ日射しが天頂から傾き始めた頃。 三人は久しぶりに感じる街の活気と、疲れた体を包んで行く安堵感に満たされると、 今晩泊まる宿を探す為、足早に通りを歩いていった。
「ここまで来たら、後は山を越えればイーダリルだ」
「お前、まさか山を越えるつもりなのか?」
「はぁ? そんな事するわけないだろ」
 リーグが何気なく呟いた言葉に、フェトーが思わず驚きの声をあげたのも無理はない。 イーダリルを目指す旅人達のほとんどは、この街から連なる山の麓を大きく迂回するようにして、 この山岳地帯を抜けて行く。 本来ならば、比較的高低差の少ない山を越えて行くほうが、 無駄な時間も労力も費やさずに済むのだが、人々は決して山を越えて行こうとはしなかった。 ――当然、遠回りをするのには大きな理由があった。
 近年、ギュミルによる友好的な歩み寄りによって、人間とエルフ族の関係は比較的良好ではあった。 しかしそれでも、種族の純血とその歴史を重んじるハイエルフとの間には、 未だ大きな蟠りが残り、互いを牽制しあっているのが事実。
 だからこそ『人間が踏み入れる事のできない聖地』という名の不可侵領域を、 誰の目にも明らかな境界とする事で、人間とエルフ族との友好的なバランスを保ち続ける。 それがお互いの種族にとって、最も安易な平穏を維持する為の術だった。
 むろん誰であろうと例外は許されていない。たとえエルフが一緒だとしてもそれは同じ事。 ただ、一緒に居るエルフがハイエルフだという事が、誰の目に見ても明らかならば、 話は別なのだろうが――
「って事はお前が一緒なら許されるのか?」
「いや、それは駄目だ」
「やっぱねぇ」
 そう言いながら両手を広げ肩をすくめるリーグに、フェトーは答えを返す事もなく、 一人黙って山を見上げていた。


* * *



 宿の部屋の大きな窓を開け放つと、ノーアトーンの山並みが一面に広がる。
 冷たい氷の匂いを運ぶ風は、長い黒髪を揺らし吹き抜け、 その風に感じる懐かしさと同時に、過去の傷跡が疼くのを感じたフェトーは、 窓枠にもたれるようにして目を伏せた。
 白く舞い散る雪の花。流れて行く透明な水。吹き抜ける雪渓の風。 そして砕け散った硝子の破片。
 どれも冷たく、そして掴めないモノばかりが色褪せる事もなく、 瞼の裏に焼き付いているのに、フェトーは深く息を吐くと、 もう一度窓の外の山を仰ぎ見た。

 あそこに戻っても何もない、あるのはただ忘れたい過去だけ。
 人知れず黙って一人聖地を離れたのは、もう十年も前の話の事。 そのまま過去も思い出も何もかも、全て忘れ去られてしまえばいいと、 闇紫の月を見上げて願った事は今も変わっていない。
 だが闇に堕とされ一人暗闇を漂ったあの夜、 心の奥から引き摺り出されたのは、腕を濡らす色褪せない鮮血。 そして深く突き刺さったままの白くて紅い花の棘の、疼くような痛みの記憶。
 自分の罪とその罰は一生消える事はない。
 だが無邪気な子供だったはずの少女の仕草が、 言葉が、指先が、髪が、肌が、その全てが、 いつしか過去と重なりはじめ、あの日と同じ笑顔を探していた。
 ――私は何をしているんだ?
 いつしか罪を許されたいと、心のどこかで願いはじめている自分がいるのに、 フェトーは深くため息をつくと、強く拳を握りしめた。


「そっかノーアトーンって、フェトーが居た所だったよね」
 軋んだ扉の開く音と、聞こえてきたヴィルダの声に、フェトーは掌で胸元を強く掴むと、 緩く息を吐いてからいつもの表情で振り返る。
「昔の事だ」
 そう言いながらもう一度窓の外に視線を向けるのを眺めながら、 ヴィルダは窓枠に手をついて、少しだけ身を乗り出した。
「帰りたいんじゃないの?」
「いや別に」
「だって私と一緒に居るせいで、ずっと帰ってないんでしょう?」
「それはヴィルダのせいって訳じゃない」
「うそばっかり」
 ヴィルダは小さく肩をすくめると、冷たい風が髪をさらって行くのを感じながら、 窓の外に広がる白い山並みに目を細めた。
 生まれ育った場所の記憶を、ヴィルダはほとんど持っていなかった。 彼女が産まれた時には既に父親は亡く、物心がついた頃には母親も病でこの世を去った。
 母親は死の間際に孤児院へと我が子を託し、 似たような境遇を持つ幾人かの子供達と、ヴィルダは数年の時を過ごしたが、 その頃の記憶も、深い闇と紫の月明りに遮られ、今では断片的にしか思い出せないでいた。
 禁忌の子の意味を、当時ヴィルダは何も知らなかった。
 だからこそ紫の月明りを浴びて、自分を見下ろしていた見知らぬエルフの、 長く黒い髪と輝く金の瞳を見上げた時、おもわず『キレイ』だと呟いていた。
 その時のフェトーの酷く驚いた表情だけは、ヴィルダは今でもはっきりと覚えていた。 その言葉がどんな意味を持っていたのか、何も知る事もなく。

「でも友達とかいたんでしょ? みんな会いたがっているかもよ」
「ふん、どうだかな」
「もーせっかく近くまで来ているのに……本当にいいの?」
 どこか懇願するようなヴィルダの声に、フェトーは小さく眉を潜めると、 ため息をついてから首を振った。
「どうした? なにをそんなに気にしている」
 その言葉にヴィルダは黙って顔を上げると、穏やかに見下ろす紫の光を見つめた。

 あの頃、フェトーがまだ子供だったヴィルダを引き取ると言ったのには、 一体どんな理由があったのか、フェトーは決して語ろうとはしなかった。 しかしハイエルフである彼にとって、最も忌むべき存在のであるヴィルダを引き取った結果、 自分の素性を隠す為に、その金の瞳の色を隠し、人間からもエルフからも逃れるようにして、 暗い森の奥で息を潜め続ける事になったのは紛れもない事実。
 そしてこの街に向う旅の最中、ノーアトーンの山々が近づくにつれ、 あまり感情を表に出す事のないフェトーが、その偽りの紫の瞳に時折ぞっとするような、 冷たい光を宿すのを見上げる度、偽り続けなければならないのは、 自分のせいだという事を、ヴィルダは改めて思い知る事になった。
 惑いの森でフェトーと共に暮らした記憶。それだけが今のヴィルダの過去の全て。 しかしフェトーには、本来居るべき場所、そして帰るべき場所があるのはわかっていた事。
 そしてその場所が今、目の前にある。

 黙り込んでしまったヴィルダの様子に、 その言葉の裏側にある、素直過ぎる感情を感じ取ったフェトーは、 一人大袈裟にため息をつくと、小さく首を振ってから苦笑した。
「まぁ、一度様子を見てくるのも悪くない」
「……うん、それがいいよ」
 まるで自分に言い聞かせるようにして、何度も頷くヴィルダの様子に、 フェトーはその細い肩を軽く叩くと、視線の高さを合わせるようにして身を屈めた。
「すぐに戻る、心配するな」
 そう言いながらフェトーは肩に置いた手を滑らせて、 銀髪を撫でるように指先に絡めると、手の甲を落ちていく毛先を風に乗せてから背中を向ける。 その仕草を視線で追うようにして、ヴィルダは立ち去る後ろ姿を黙って見送った。

 窓から吹き込んだ冷たい風が、耳元を掠めながら銀の髪を揺らしていく。
 その風に導かれるように視線を向けて、聳え立つ白い山並みを見上げた銀と碧の瞳は、 緩く吐き出すようにため息をつくと目を伏せた。


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