黒き残月

 山の稜線を夕日が赤く縁取り、茜に染まる空が濃紺の夜を連れてくる。
 それはいつもの光景、でもそれはいつも同じ日常ではない、 変わらないようでいて、確実に昨日とは違う今日の夕暮れ。 当たり前だと信じていたモノが、当たり前ではなかったと気がつくのは、 いつも全てが過ぎ去ってしまってから。

 街の様子を見てくると出かけていたリーグが、 再び宿の扉をくぐったのは、日が沈み暗くなった通りを、 窓から零れる明かりが彩る頃。
 土産だとばかりに露店で買い求めた果物を、 テーブルの上に転がすように置いてから、窓際で外を眺め続けている後ろ姿を眺めると、 リーグは頭を掻きながら暗い部屋の中を見回して、壁の燭台に火を灯した。
「そっか、あいつは行ったのか」
 寝台の横の燭台にも火を灯しながら、何気ない素振りで呟いた言葉に、 後ろを向いたままの姿勢で、ヴィルダは黙って頷く。 その様子にリーグは小さくため息をつくと、燭台の灯るテーブルに片手をつきながら、 もう一方の手で前髪を乱雑にかきあげた。
「行って欲しかったんだろ?」
「うん」
「やっぱ後悔してる?」
 一瞬その身を震わせるようにしてから、大きく首を横に振るヴィルダにリーグは肩をすくめると、 俯くその背中の向こうの暗い窓の外へと視線を向け、 月明かりの空に黒く浮かぶ山の稜線を眺めた。

 ヴィルダがフェトーをノーアトーンに帰らせようとしていたのには、 リーグは随分前から気付いていた。ヴィルダにとってここまでのさほど長くはない旅路の中で、 リーグを始めとする多くの人に出会い、それぞれの暮らしとその生活を垣間見る事で、 フェトーとたった二人だけの世界が、当たり前だと思っていたその世界が、 当たり前ではないという事に気がつくのには、多くの時間はかからなかった。
 誰もが自分とは違う誰かと、その誰かもまた別の誰かと繋がり、 どこまでも世界は広がっている事を知った事で、 自分が当たり前だと思っていた閉じた世界に、フェトーを巻き込んだのは自分だと感じた彼女は、 進む道の先に見えていたノーアトーンの山並みが近づくにつれ、 いつしか一人考え込むようにしている事が多くなっていた。
 そんな彼女の様子にはリーグでさえ容易く気がついた程、 フェトーが気がつかないはずがなかったが、 言葉少なになるヴィルダにも、特に労る言葉をかける事もなく、 今までと変わらず接し続け、結局この街に辿り着くまで、 その事について一度も声をかける事はなかった。
 それはまるで見て見ぬ振りをしているようにも、 彼女を追いつめているかのようにも見え、痺れを切らしたリーグは、 この街につく間際にヴィルダに声をかけると、その気持の全てを聞いた上で、 本人にちゃんと聞く事が最良だと、彼女の背中を押した。
 そしてリーグがこの街に着くや否や、様子を見に行ってくると二人の元を離れている間、 ヴィルダはおそらくフェトーに話を切り出したのだろう、 その結果彼はノーアトーンへと戻り、ヴィルダはこうして一人その帰りを待っている。

 リーグはやれやれとばかりにため息をつくと、テーブルから離れヴィルダの隣に立ってから、 もう一度山の中腹辺りを、手をかざすようにして眺めた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だって、すぐ戻るって言ってたんだろ?」
「うん」
「明日には帰ってくるんじゃないか?」
「……」
 その言葉に黙り込んでしまったヴィルダの様子に、 リーグはもう一度深くため息をついてから、頭の後ろで両手を組んで窓に背を預ける。 冷えた窓から背中越しに伝わる冷たい風は、 僅かなぬくもりを閉じ込めた部屋に静寂を運び、冷たい沈黙で二人を支配する。

 一緒に旅をしてリーグが感じて来た二人の絆。
 ヴィルダにとって、フェトーという存在のその意味。 それはまるで親子のようでもあり、兄妹のようでもあり、そして恋人同士のようでもあり。 しかしどれもが当てはまるようで、どれも当てはまらない気がする。 それは自分達は『監視する者』と『監視される者』だと言ったフェトーの言葉を、 どうしても思い出してしまうせいだと気付き、リーグは眉をひそめて顔を上げると、 かける言葉を探すようにして、 頼りなく揺らめく壁の明かりが、天井に影を作るのを見上げた。

「私、何も知らないんだなって」
 不意に呟いたヴィルダの声に、リーグは顔を向ける。 そして冷たい硝子に両手と額を預けるようにして、俯いたままのその様子に、 緩慢な瞬きをしてから言葉の続きを待った。
 やがてヴィルダは独り言の様に言葉を紡ぎ始めた。
「どうして傍にいてくれるのか、どうして護ってくれてるのか、 何をしていた人なのか、何を考え思っているのか。私は何も知らない」
 そう呟きながら、ヴィルダは鏡のような硝子に映っている、 まるで透明な硝子細工のような自分の影と、手を重ね合わせるようにしながら見つめた。
 そこに映っているのは自分、でもそこに居るのは自分ではない。 ぬくもりもなく、暗くて、冷たく、ただ漆黒色をした影。 でもその影こそが、禁忌の子と呼ばれ疎まれる、 本当の自分なのかもしれないと思いながら、ヴィルダはその影から視線を逸らすように目を伏せた。
『ずっと傍に居る、ずっと護る』
 なんの疑いもなく受け入れていたその言葉の意味と、 そしてその理由を、ヴィルダは今酷く知りたいと思っていた。 ハイエルフであるフェトーが、なぜ自分のような者の傍に居ると言ったのか、 そしてどうして護ると言ったのか。あの時、おもわず『綺麗』だと見上げた、 彼の真実の金色の瞳に映っていたのは、一体なんだったのだろうか。
 いくら考えてもわからないその答えに、ヴィルダは何度目かのため息をつき、 その様子を眺めながら黙って話を聞いていたリーグは、 心の奥にずっと引っかかっている何かを探すようにして、部屋の中をあてもなく視線を泳がせた。

 あの日、国境の街でフェトーがリーグに語った事が、もし全て真実だとするのなら、 彼はヴィルダを監視する為、そして利用する為に傍に居て護って来たというのなら、 その行動の根幹にある『モノ』は一体なんだというのか。
 彼等ハイエルフ自らが『監視』しなければならないもの、 そして命を賭けてまでも『守護』しなければならないもの。 そこには同じ理由があるようで、しかし全く別の目的があるように思えて、 リーグは顔を天井に向けたままで、一度だけ目を伏せると、俯くヴィルダに向き直った。
「じゃあさ、ヴィルダはどうなんだ? あいつの事どう思ってるんだよ?」
「どうって?」
「ん、なんだ、そのーいろいろあるだろう。例えば……好き、なのかとか?」
 寄りによって自分は何を聞いているんだ、と思いながら、 リーグは一瞬首を傾げたヴィルダが緩く瞬きをするのを横目で眺めると、 肩をすくめてから頭をかいた。
「うん。だってずっと一緒に居てくれたのはフェトーだけだったし。 でもフェトーには一緒に居たかった人とか好きな人が、きっとあそこにはたくさん居るんだろうなって」
 そう言いながらヴィルダが見上げる暗い窓の外には、闇に青白く浮かんだノーアトーンの山並み。
 彼女の言う『好きな人』とは、たぶん家族や友人の事を指している。 そんなどこかはぐらかされたような気がする答えに、 リーグは冷えた窓に肩を預けたまま苦笑すると、肩越しに暗い窓に映る二人分の人影を眺めた。

 誰かが傍に居るのが当たり前。誰かと一緒に居るのが当たり前。 誰かを失うのが怖いのは、そう信じてしまっているから。 当たり前なんてどこにもないと知っている自分は、 きっと幸せなんだろう。
 そんな事を考えて、リーグは緩く首を横に振ると、 膝を曲げるようにして身を屈めて、俯く顔を下から覗き込んだ。
「でもさ、ヴィルダを一番大切にしてくれてるのは確かな事だろ?」
 そう言って肩をすくめると、視線を向ける銀と碧の瞳が揺れる。
 その瞳に映るのは、目の前に居るはずの自分ではなく、 別の場所にいる姿なき別の相手。
 リーグは僅かに瞳の翠を色濃く染めると、 暗い硝子に映る自分の姿に目を細めた。
「俺も、今はここに居るんだし」
 明るく笑ってみせたリーグは、窓に映る自分と同じ姿の男に背を向けた。


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