黒き残月

 深い山の緑の中は、人の気配はまるでない。 山道を登るにつれ、足元を濡らす残雪の白さが目につくようになり、 涼しさよりも寒さを肌が感じ始める頃には、大地は白く覆われていた。
 足音さえも聞こえない、静寂に包まれた山の中を、不意に通り過ぎていった黒髪に、 木陰に潜む小さな精霊達は、さざめくように小さな声をあげ、凛とした冷たい空気を微かに震わせる。 やがてその声は波紋のように森に広がり、いつしか辺りには薄い碧色した霧が立ちこめていた。
 それは水守の精霊による加護の証。 そしてこの場所に立つ者全ては、その清逸なる目に晒され、 心の奥底にしまい込んだものまでも、全て見透かされ曝け出されるような感覚に襲われる。 並大抵の精神では正気を保つ事は難しい。 この感覚こそが迷い込む人を、狂気に落とすと言わしめる要因でもあった。
 霧に包まれその足を止めたフェトーは、沸き上るように押し寄せる感覚に僅かに眉をひそめると、 立ち止まった場所から、真っ直ぐ前に腕を伸ばした。 そして指先に感じた冷たい水面に触れたような感触に、フェトーは静かに息を吐いてから声にならない言霊を呟く。 ――と、指先から同心円の波紋が靄の上へと広がっていった。

 ――たいそう久闊な事よの――

 そんな声が聞こえた気がして、フェトーは瞑目し緩く頭を下げる。 やがてどこからともなく静かに水が流れるような音が聞こえてきたのに顔を上げると、 目の前の景色が滲むように融けはじめ、淡い色合いを見せる清和な町並が眼前に広がった。
 限られた者しか立ち入る事の出来ないこの場所こそが、 ハイエルフの守護する聖地『アールブヘイム聖地ノーアトーン』

 町並みを吹き抜けた柔らかな風は、肌に触れる大気の冷たさを和らげ、 花の香りを乗せるようにしながら黒髪を揺らしていく。 冷たい雪水のように透き通るその風は、今もそしてあの頃も、 きっとこの地が聖地と呼ばれ始めた頃から、少しも変わってはいないのだろう。 緩やかに流れる時と空間に包まれたこの町は、大地の喧噪も知らずただ穏やかで、 まるで世界から取り残されているかのようだった。
 フェトーは静かに目を閉じるとその風に身を委ねるようにして、 息を深く吸い込みながら結っていた髪をほどく。風を巻き込んだ髪が耳元で踊り、 ゆっくりと見渡すようにしながら瞼を開くと、彼がハイエルフである証――金色の光を瞳に瞬かせた。
 見渡した街の奥には、一際大きな白い神殿のような建物が聳え立つ。 その建物を見上げたフェトーは、街の中央へと続く通りをゆっくりと歩き始めた。
 聖地であるノーアトーンに暮らすエルフは少なくはない。 しかし人間達が暮らす街のように、活気に満ち溢れている訳ではなく、通りを行き交う者は少ない。 生き急ぐかのように、時間に追われて生きている人間達とは違い、 誰もが思い思いの場所で、それぞれの長い穏やかな時間を楽しむように過ごしていた。 停滞した時に囚われているかのような、彼等の間をすり抜けるようにして、 通りを足早に抜けて行くフェトーとすれ違った者達は、 その姿に一様に驚き振り返ると、見覚えのある長い黒髪を靡かせた後ろ姿に囁き合い、 やがて聞こえてくる自分の名前に、フェトーはため息をつくようにして目を伏せた。
 フェトーがこの国を出てから十年余り。エルフ族にとってそれは長い時間ではない。 この町はあの日から、そして十年経ってもきっと数百年も前から何も変わってはいないのかもしれない。

「そこの者、足を止めよ」
 不意に聞き覚えのある声で呼び止められ、フェトーは言われた通りに足を止めると、 肩で大きく息をつくようにして声のした方へとゆっくりと振り返る。 穏やかな雰囲気を漂わせるこの街には酷く不釣り合いな、 重く固い金属の音を響かせて、物々しく駆け寄って来たのは軍装の数人の男達。
 その先頭に立つ、いつかの自分と同じ装備に身を包んだ鈍色の髪の男の顔にフェトーは目を細めると、 その男は驚いたようにその金色の瞳を見開き、後に従えていた兵士達を片手で制するようにその場に留めてから、 ゆっくりフェトーの前へと歩み寄った。
「まさか……お前……」
「ふん、随分遅いお出ましだな『ノーデンス』」
 その言葉に一瞬眉をひそめた男――ノーデンスは、 かつてフェトーがアーブルヘイム皇王アルファズル直属の、護衛皇士として仕えていた頃の同僚であり、 フェトーの数少ない友人の一人だった。
「本当にフェトー、なのか?」
「そうだな、偽物かもしれないぞ?」
 ある程度は予想していたとはいえ、真っ先に現れた相変わらずの昔なじみの顔に、 笑みを浮かべて答えるフェトーの様子に、ノーデンスは控えていた兵士達に短く指示を出す。 短く返事をしてから立ち去っていく彼等の後ろ姿を見送ってから、 改めて真剣な眼差しを向けてくるノーデンスにフェトーは肩をすくめた。
「なんだ確認もなしか」
「見間違える訳がないだろ、あまり俺を舐めるなよ」
「とっくに死んだ思われていると思っていたんだがな」
「それは……」
 口籠るノーデンスの様子に、自分の生死の遇いについて、 大方の見当をつけたフェトーは緩く目を細めると、皇王の元へ案内して欲しい事をノーデンスに告げた。
「今から?」
「できるだけ早く頼みたい」
「早くったってお前、そう簡単にはなぁ。……皇王に一体何の用があるんだ?」
 訝しむように向けるその視線に、僅かな警戒の色が見え隠れするのに、 フェトーは揶揄を滲ませるような笑みを浮かべ、両手を軽くあげて肩をすくめてみせた。
「なんなら『突然生き返った不審な死人をひっ捕らえました』と、 首に縄をかけるでもして、御前に突き出してくれる方法でもいんだが?」
「突き出すって……ったく、間違いなくお前はフェトーだ」
 大袈裟なため息をつきながら、忌々し気に首を振るノーデンスの様子に、 フェトーは苦笑を返して手を下ろすと、その肩を軽く叩いて案内を促しながら、 二人は大理石が整然と敷き詰められた、長い坂道を歩きはじめた。

 十年前のあの日。フェトーが突然居なくなったその本当の理由を知っている者は、 おそらくここは誰も居ないだろう。 自分が姿を消した後に一体何があったのか、そしてノーデンスはどう思ったのか、 それを聞くのは今更な気がして、フェトーは他愛もない短い会話をしながら、 過去で止まったままの、自分の中にあるこの街での記憶を手繰り寄せる。
 そしてその遠い記憶の中と、目の前にいるノーデンスの姿を思い比べながら、 ふと、昔の出来事を思い出して一人苦笑を浮かべた。 その様子に怪訝な視線を向けられて、フェトーは何もない、と言った風に首を振ると、 真っ直ぐ前に視線を向けて目を細めた。
 建物が近づくにつれ、宮仕えの衣を身に纏った女官の姿が視界に入るようになり、 通りを歩いて行くフェトーとノーデンスの姿に、互いに耳打ちをし、 鈴を鳴らすような笑い声が微かに聞こえて来る。 皇士最高位の皇王直属の現皇士と元皇士。しかし立ち並ぶその姿は正装と薄汚れた旅姿。 それはさぞ不釣り合いに見えるのだろう。そんな事を考えてまた苦笑を零したフェトーは、 不意に感じた強い視線に顔を上げると、黙って見つめるノーデンスの視線に首を傾げた。
「なんだ、どうした?」
「お前変わったな、いや違う……変わったって訳じゃないのか」
「どういう意味だ?」
 何か一人で納得している素振りのノーデンスの様子に、 フェトーは眉をひそめて聞き返す。その顔に肩をすくめると、 ノーデンスは目を細めながら、酷く嬉しそうに笑った。

「お前、また笑えるようになってるじゃないか。――そう『あの頃』みたいにさ」

* * *



 謁見の手配をしてくる間ここで待っているように、と案内された部屋は来賓用の応接室。 一通り部屋を見回してから、フェトーは中庭に面した大きな窓を開くと、 目前に見渡す限りに広がる雪渓から、涼やかな風が吹き込み頬を撫でて行く。
 昔と変わらない冷たい雪の匂いと、覚えのある花の香りに、 フェトーは窓の下に広がる中庭へと視線を落とす。 手入れの行き届いた中庭には、無数の色とりどりの花が咲き誇り、 柔らかな色彩の中に、幾人かの宮使えの女官達の姿が見え隠れする。
 その姿をしばらく見下ろしていると、その視線に気がついたかのように窓辺を見上げた女官は、 窓辺に佇むフェトーに向って笑顔で手を振る。 ふと、その姿に自分の口元が緩んでいる事に気が付いたフェトーは、 緩くため息をついてから、窓枠にもたれるようにして窓の外に背を向けた。
「あの頃、か」
 感情なんかいらない。心惑わすこともない。
 そう誓ったあの日、自分の無力さを見せつけられた、未だ遠くない過去の記憶が甦る。

 それは白くて紅い花の記憶。
 決して忘れていたわけじゃない。でも忘れかけていたのかもしれない。 一生背負って生きて行くはずだった罪を、あの無邪気な微笑みに触れているうちに――

「……すまない」
「あら、何を謝っていらっしゃるんですか?」
 口をついて零れ落ちた独り言のような言葉に、思いもよらぬ場所から声をかけられ、 驚き振り返ったフェトーは、扉の前に佇んでいた人物の姿に言葉を失った。
 一瞬で巻き戻る過去の記憶。
 目の前に広がった一面の雪景色に佇む人は、 銀色の髪を風に揺らしながら、静かに振り向き微笑みを浮かべる。 その瞳に映っているのは――
 ――いや違う。これは違う。
 フェトーは片手で目元を覆うようにして首を横に振ると、吐き出すようなため息をついてから顔をあげる。 その様子にその人物は怪訝そうな表情を浮かべ、手にしていた茶器をテーブルの上に静かに下ろしてから、 フェトーの方へと向き直り緩く頭を下げる。彼女の薄い空色の髪が揺れた。
「何度も外からお声を掛けましたのですけれども、お返事がなかったものですから、 断りもなく立ち入って申し訳ありません」
「いや構わない、こっちこそ悪かった。……久しぶりだなシローナ」
「ええ、フェトー様もお元気そうで」
 そう言いながら柔らかく微笑むその姿にフェトーは目を細めると、 全てのモノが場所がそして人が、過去の記憶に連なり繋がってゆくのに、 静かに深く息を吐いた。


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