黒き残月

 謁見が許されたのは、辺りを囲む雪渓が黄金色の光を放つ日暮れ間近。
 案内される先が玉座ではなく、皇王の私室――すなわちこの謁見は公式のものではなく、 あくまでも個人的に話を聞くものであるという事であり、 皇王自身の考えと言葉が聞ける反面、その場で述べられる言葉や約束は、 後に聞かなかった事として扱われる可能性もあるという事。
 フェトーは小さくため息をつくと、先に歩くノーデンスの、 街で出会った時とは違う正装の後ろ姿を眺めながら、そのマントの下から聞こえてくる、 兵装を伺わせる微かな金属音と、傾く日射しが長い廊下に規則正しく並べた光と影を、 瞳の端に映しただ黙ってついて行った。

 やがて重厚な扉の両脇を、武器を携えた兵士が警備する部屋の前に辿り着く。 扉の前で姿勢を正すノーデンスと同じように、フェトーも真っ直ぐその扉を見つめると、 金具の外れる固い音が微かに響き、ゆっくりと扉が内側へと開かれる。 扉の奥から現れた部屋付きの従者に誘われるまま、二人は部屋の中央へと進み、 やがて背中越しに重い扉が閉まった音が聞こえると、部屋の窓辺に佇んでいた男が振り返るのに、 ノーデンスは右手を胸に当てながら緩く頭を下げた。
「皇王。フェトーをお連れ致しました」
 その言葉を聞いてから、フェトーはノーデンスと同じように右手を胸に当ててから、 一歩前に足を踏み出すと、そのまま片膝をついて頭を深く垂れる。
「急な謁見の申し出をお許し頂き、感謝至極にございます」
「儂はお主とは会いたくなかったのだがな」
「申し訳ございません」
 そう言いながら更に頭を下げるフェトーの様子に、 窓辺に立っていた白銀の髪の初老の男――アールブヘイム皇王アルファズルは、 僅かに表情を険しくすると、部屋に控えていたノーデンス以外の者全てに、退室するように命じる。
 重なりあう複数の靴音が遠ざかり、やがて部屋の中に静けさが戻ると、 一人部屋に残ったノーデンスは、左手を腰の剣の鞘にかけた姿勢で、 窓辺の皇王と跪いたままのフェトーの間、二人の横顔を眺めるよう一歩下がった場所に立った。
 いつでも剣を抜く事が出来るその姿勢。それは皇王を守護する皇士としての当然の立ち位置であり、 皇王に対する者への牽制と警戒を示すもの。 俯いた姿勢のままフェトーは僅かに目を細めると、 肩先から一筋零れ落ちて揺れている自分の黒髪を眺めながら、口元に緩く自嘲の笑みを浮かべた。

 やがて身体にまとわりつくような重苦しい空気を払うようにして、 深く長いため息をついたアルファズルは、俯いたままのフェトーの顔をあげさせると、 真っ直ぐ見上げるその視線を受け止めてから、ゆっくりとした口調で言葉を続ける。
「今はどこに居るのだ?」
「ギュミルの首都イーダリルへ向う途中に在ります」
「イーダリル? まさか『目覚めた』のではあるまいな?」
「いえ、それはまだ。しかし時間の問題でありましょう」
 その言葉にアルファズルはフェトーを睨みつけるように眉をひそめると、 後ろで組んでいた手を外し、窓際に置かれた椅子に腰を下ろしてから、 肘掛けに両肘をつき組んだ指に顎をかける。 そして安堵とも諦めともつかないようなため息をつく様子に、 フェトーは上げていた顔をもう一度伏せるようにして頭を下げた。
「私の力が及ばず、申し訳ございません」
「なに、お主のせいだけではあるまい。やはり全てを巻き込むは避けられぬか……」
 そう呟きながら唸るような声を漏らして、アルファズルは椅子の背もたれに背を預けると、 一人何かを考え込むように、しばらくそのまま天井を仰ぎ見ていた。

「何が『鍵』なのか未だわからぬ以上、少しでも時間を稼がねばなるまいな」
 やがて胸に溜めた息を吐き出すようにして、長く深いため息をつくと、 そう言いながら黙って控えていたノーデンスの名を呼ぶ。 二人の会話を厳しい表情のまま黙って聞いていたノーデンスは、 その声に皇王に向き直り緩く頭を下げた。
「ここに」
「近いうちに大きな争いが起きるやもしれぬ、いつでも対応できるよう全ての臣に伝えよ」
「……それは真事でございますか?」
「そうならぬよう、長きに渡り祈り続けていたのだがな。 どうやら我等ごときがいくら策を巡らそうとも、どうする事もできぬらしい」
 自嘲じみた笑みを浮かべたアルファズルの言葉に、ノーデンスは一瞬目を見開き瞬きをすると、 跪いたままのフェトーに一度だけ視線を投げてから、胸元に右手を添え深く頭を下げた。
「御意」


* * *



 御前を退いたのはすっかり日が沈み、辺りを闇が包んだ頃。 長い廊下には重なった月の端を、それぞれ薄い紫に染めた淡い色彩の影が落ちる。
 人の気配のない薄暗い廊下を黙って歩き続けた二人は、 やがて建物を離れ外へ出ると、今夜の宿泊用にと、フェトーに用意された部屋のある建物へと向っていた。 人気のない中庭は、月明りを浴びた様々な花が、 辺りに香りを漂わせながら、ただ静かに咲き風に揺れるだけで、 精霊達が囁くような声さえ聞こえてくる程に、ひっそりと静まり返っていた。

「待て、フェトー」
 不意に低く呟くようなノーデンスの声に、 フェトーはようやくか、とばかりに深く息を吐いてから、足を止めて振り返ると、 おそらくずっと考え込んでいたのだろう、険しい表情を浮かべるその顔に、 わざとらしく首を傾げてみせる。
「どうかしたのか?」
「さっきのは一体なんなんだ、これから争いが起きるとはどういう事だ?」
「なんだ、ちゃんと聞いてなかったのか?」
「聞いていたから聞いている! 『争いの起きるその原因はなんだ?』と」
 苛立ったように声を荒げるノーデンスの様子に、 フェトーは目を細めて口元に薄く笑みを浮かべる。 その表情は酷く冷たく、背中が冷える感触を覚えたノーデンスは、 おもわず身構えると眉をひそめた。
 立ちすくむ二人の影の間を、冷たい風が吹き抜け花弁を散らす。 それは月の光を受けて、まるで雪のように輝きながら静かに舞い落ちて来る。 目の前をゆっくりと過ぎて行く一枚の花弁に、フェトーは黙って手を差し伸べると、 花弁は広げた掌の上を掠めるようにすり抜け、音もなく足元に落ちた。

「まるで『あの時』みたいだな」
 花弁を掴む事の出来なかった掌を緩く握り、その手を見下ろしながらフェトーは苦笑する。 その声に彼と同じようにして、夜空に舞う花弁を見上げていたノーデンスは、 僅かに眉をひそめてから、その視線をフェトーへと向けた。
「今なんて言った? 『あの時』って……」
 続く言葉を口にしてもいいものかどうかと、思案するかのようにノーデンスは口を噤む。 表情を伺うような彼の視線の先で、黙って自分の掌を見下ろしていたフェトーは、 やがてその目を閉じると、握りしめていた拳を開いてからもう一度目を開く。 そして空虚だけを掴む掌にため息をつくと、空を見上げた。
「『今度は』間に合うんだろうか」
 空に浮かんだ月を見上げるフェトーの視線の先では、緋色と碧色の二つの月が半分近く重なりながらも、 それぞれの淡い光を放ち、互いの存在を暗闇に示す。 フェトーの視線に釣られるようにして、目を細めて同じように月を見上げたノーデンスは、 やがてその言葉が意味するモノに気がつき、弾かれたように目を見開くと、愕然とした表情をフェトーへと向けた。
「まさか、それって……」
 息を呑むようにして睨みつけるノーデンスの表情に、 フェトーは何も答えを返す事もなく、ただ静かに佇んでいた。
 否定しないのは、認めたくない肯定の意。
「馬鹿な、今は既に『もう一人』が居るんだぞ!  それがどういう事を意味するのかわかっ――」
 思わず自分が言いかけた言葉に、口元を手で押えたノーデンスは、そのまま絶句した。

 この世界に住む者なら、誰しもが幼い頃に一度は聞いた事のある物語がある。 争う二人の神と、二人を見守った一人の神の物語。 それはごく一部の信心深い者達等を除いた、この世界に住む多くの者達にとっては、 幼い子供に聞かせるために作られただけの、世界創造伝説のお伽噺。
 だがもし『お伽噺はお伽噺ではなかった』とすれば、 それは子供に語るにはあまりにもおぞましい真実となる。

 無からの新生を導く為の破壊と、繁栄と支配をもたらす為の蹂躙。
 破滅を願う者の依代と、繁栄に執着する者の依代は、 同じ時代に、同じ世界に存在しているだけで、 漆黒の闇へ向う破滅への回廊を幾度となく開き、混沌の闇で世界を満たす。
 絶望と後悔に苛まれたそれぞれの存在は、やがて闇色の月の向こうで光り輝く環に手を伸ばす。 それは静かに浄化の光で世界を包み、二つの意思を互いに封じる事で、 新しい世界をこの大地に産み出した。

 事実『女神』と称され、封じられた二つの意思は存在し、 『彼女達』が目覚めた事も歴史上に記録されている。 だがそれはいつも『どちらか一人だけ』であり、彼女達は争う相手もない世界をただ通り過ぎ、 それぞれがもたらす静かなる破滅か、緩やかな繁栄で世界の歪みを調律すると、 長き時を経て目覚めるその時まで再び眠りつく。
 そうやって歴史が刻まれて来た事を、この世界の人々は知りすぎていた。 だからこそ『二人とも』目覚めたと、万が一人々に知られるような事になれば、 その結果産み出される事象の全てが、絶望に満たされるものばかりである事は、 物語を知っている世界の全ての者に、容易に想像がついてしまう。 結果、一瞬で世界の全ては、恐怖と混沌の闇に落ちるのは明白だった。

 ――そんな事実を目の前の男はいつから知っていたのだろうか。 そしていつからその事実を一人背負い黙っていたのだろうか――
 まるで何事も無いかのように、ただ静かに佇むフェトーの様子に、 ノーデンスは言葉を発する事も出来ず、気持の整理も考えもまとまらない様子で、額に手を当てながら、 まだ想像でしかない自分の考えを振り払うように、何度も大きく首を振った。
「でもあの日からまだ……そうだ、おかしいじゃないか? 早過ぎる」
 『あの日』闇に消えた光と、失われた記憶。輪廻と呼ばれる時の流れの巡りの中で、静かに眠りついた魂が、 流れ行く時の中に再び目覚めるのは、ここよりも遥か遠い時の彼方であるはず。 自然の摂理に反する時の歪みは、ただの偶然などでは有り得ない事。
「何かの間違いじゃないか? ただの思い違いとか」
 気がついた矛盾にノーデンスは、声色を僅かに明るくすると、 黙ったままのフェトーに肩をすくめてみせる。 しかしフェトーは静かに首を横に振ると、 足元で月明りを浴びて輝く花が、風にさざめくように揺らぎ、銀色の光を放つのに目を細めた。
「そうだな」
 そう言いながらフェトーはゆっくりと顔を上げると、 その全てを深い紫の光に染めようとしている、二つの月を見上げた。

「間違いだったらそれでいい」


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