黒き残月

 …………ト……
 ……ェ……トー

 それはどこまでも続くかのような白い世界。 見渡す限りの雪原のようなその場所に、一人立ちつくし辺りを見回していると、 遠くで誰かが名前を呼んでいる気がする。どこかで聞き覚えがあるその声に耳を澄ましてみるけど、 一体それは誰だったのか何も思い出せないまま、その声に答えようとして差し伸べた手は空しく彷徨う。

「フェトー」
 夢を見ている時は眠りが浅い。 不意に名前を呼ばれて、一気に現実に引き戻されたフェトーは、瞼を見開き暗い天井を見上げると、 寝台のシーツを掴むようにして緩く皺を寄せながら、酷く気怠さを感じる重たい体を起こした。
 この国に戻る事をフェトーはあまり気乗りしていなかった。 しかしここは自分が産まれ育った場所であり、懐かしく穏やかな街の雰囲気に、 ずっと張り詰めていた気が抜けてしまったのか、思いがけず深く寝入ってしまっていた事に、 フェトーは覚醒しきれない頭を緩く振ると、肩から乱れ落ちた髪をかきあげながら、 苦笑を浮かべるようにしてため息をつく。 ――と、不意に人の気配を感じ、窓辺で微かに揺れた影にフェトーは鋭く視線を移した。
 碧と緋の混じる月明かりは、額縁のように窓枠を光らせ、 まるでそこに別の世界を写し取った、絵画のような光景を浮かび上がらせる。 そしてその中央では、月明りの逆光に透けるようにして、 薄い紫に縁取られた長い銀髪が揺れていた。
「ヴィル……?」
 おもわず口から零れかけたのは、いつも傍に居る少女の名前。 しかしここは聖域の中でも、限られた者しか立ち入る事のできない場所。 ましてや「禁忌」と忌み嫌われる彼女は、この国に立ち入る事すらできる訳がない。
 まだ夢を見ているのかと考えながら、フェトーはもう一度その姿を確かめるように見上げると、 その人物は『金色の瞳』を緩く瞬かせ静かに微笑みかける。 その眼差しに、遥か彼方に置いて来たはずの感情が呼び戻される気がして、 フェトーは僅かに眉をひそめ、息を吐きながら口を開いた。
「イスール、なのか?」
 その名を最後に呼んだのは今はもう遥か昔の事。 真白な雪の中に紅い花を散りばめて、微笑む冷たい体を抱え起こした記憶が鮮明に蘇る。
 フェトーは僅かに表情を歪めてから、自嘲じみた笑みを浮かべると、静かに見下ろす顔を見上げた。
「そうか、まだ夢を見ているのか」
「フェトー」
 静かに名を呼ぶその声は、確かに『彼女』の声をして、 ただ呆然と見上げるだけのフェトーの前に、イスールと呼ばれた女性は窓辺から離れ歩み寄ると、 その長い銀色の髪を揺らすように腕を伸ばして、細い指先でフェトーの頬に触れた。
「自分を誤摩化す癖は相変わらずなのね」
「何の話だ?」
「わかってるくせに」
 緩く笑みを浮かべながら、頬を撫でる彼女の指先は、酷く冷たく痛みすら感じる気がして、 フェトーはその手に重ねるように自分の掌を添えると、覗き込む自分と同じ色した瞳を見つめ返した。
「君の手も相変わらず冷たい」
「みんな貴方の事を心配してるのよ」
「あいつと同じ事を言うんだな。『俺』はそんなに頼りないか?」
 苦笑するその言葉にイスールは首を横に振ると、重ねるように添えられたフェトーの手を、 両手で包むようにして引き寄せ、そのまま自分の頬に当て瞳を閉じる。
「貴方は苦しくても平気なフリしたり、感情がないフリを演じたり、 自分に嘘をつくのも何でも出来てしまうから」
 呟くイスールの細い肩から、静かに滑り落ちた銀色の髪は、暗闇に冷たい光を放つ。 それはあまりに鮮明で、現実と幻の境界を曖昧にしていくような気がして、 フェトーは何かを確かめるように、彼女の頬に触れている掌を撫でるように滑らせた。
 イスールは目を閉じたまま、しばらくその掌の動きに身を委ね、やがて静かにため息をついた。
「私の事も忘れたフリして誤摩化して……本当に忘れてしまってもいいのに」
「そんな事はできない」
「でも、私はもう『居ない』んだから」
「嘘を言うな……」
 呻くように呟いたフェトーの言葉に、イスールは顔を上げると哀し気に微笑んでみせる。 その顔にフェトーは大きく首を横に振ると、強く背中を抱き寄せながら、 そのまま後ろに倒れ込むようにして寝台を軋ませた。
 月明りだけが差し込む部屋に、銀の髪が舞うように煌めき、 やがて緩やかな曲線を描いて二人の上に静かに落ちてくる。 その下で強く胸にかき抱いた息遣いと重さは、確かな存在感と懐かしい香り。
「ほら、ちゃんとここに居るじゃないか」
 そう言いながら存在を確かめるかのように、華奢な背中に回した腕に力を込めてから、 抱き寄せた銀の髪に顔を埋めて、囁くようにその耳元に呟くと、 イスールはフェトーの胸に擦り寄るように顔を埋めてから、小さくため息をついた。
「……ごめんなさい……」
「イスール?」
「……違う……」
 不意にその声色が変わるのに、フェトーは背中に回していた腕の力を緩めると、 彼女はゆっくりと肘を伸ばし、埋めていた顔を上げるようにして体を起こす。 その様子を黙って見上げる視線を長い銀の髪が一瞬遮り、見下ろす視線は碧と銀の光を放ち、 抱き締めていたその身体の冷たさは、いつしか脈打ち熱を帯びる。
 フェトーは緩慢な瞬きをしてその顔を見上げると、さっきまで確かにここに居たはずの姿を探すように、 虚ろな金色の視線を暗い部屋に彷徨わせた。
「こっちを見て」
 息のかかる程の距離で囁く声に、僅かに目を見開きその顔を見上げると、 見下ろすその肩から零れ落ちる銀の髪が、頬を掠めて周りの視界を遮るのに、 フェトーはため息をつくようにして目を細めた。
「もう、ひとりにしないで」
 瞳に焼き付いた虚ろな幻を振り払うように、フェトーは小さく首を振ってから、 僅かに身を捩るようにすると、肩に置かれていた細い指先が、滑るように首筋へと回る。
 さっきまでとは違う、熱を帯びたその身体と、真っ直ぐ自分の姿を捉える潤んだ瞳に見つめられて、 思わず息を呑み視線を逸らす事も、言葉を発する事もできないのに、 フェトーはただその銀と碧の瞳に映る自分の姿を見上げていた。
「ねぇ、私の事――――でしょう?」
 その様子に緩く笑みを浮かべた薄紅の唇が、ゆっくりと重なろうとする間際、 囁くような言葉の続きが吐息と共に零れ落ちる。 その瞬間フェトーは目を見開くと、覆いかぶさるような細い肩を掴み、 そのままその身体を強く引き離した。
「消えろっ!」
「いやっ、どうし――……」
 悲鳴じみた言葉の続きは、凪払った枕元の刃の鋭い切っ先に霧散し白く滲んで消える。 そして光も熱も人影も、全てかき消えた暗闇の中には、乱れた息遣いだけが響いていた。

「くそっ」
 フェトーは片手でを顔を覆うようにしながら、強く奥歯を噛み締める。
 一番最初から全ては夢で幻だとわかっていた。それなのにその姿に惑わされ、 囚われたまま堕ちていくだけの自分が居た事に、フェトーは息を吐き捨てると、 全てを振払うかのように大きく頭を振ってから、握りしめたままの刃が放つ銀色の光に眉をひそめた。
 ――あなたはご自分が思っている程強くはない――
 いつか聞かされた言葉を思い出してフェトーは首を振ると、上着を掴み冷たい床に足を下ろし、 ただ静かに月明りが差し込む窓を眺めてから、乱暴に部屋の扉を閉めた。

 窓の外はまだ浅い夜の淵。主を失った暗い部屋は、静かに熱を失って行く。
 やがて静寂を取り戻した部屋の片隅に、黒い人影が滲むように浮かび上がる。 そして嘲笑のような声にならない声を残して、影は月明りが静かに差し込む闇に溶けて消えた。


Prev / Next > Top

Purple Moonlit (C) copyright YUKITOMO

inserted by FC2 system