黒き残月

 月明かりの下で長い黒髪が流線を描き、幾筋もの銀の光が鋭い風斬り音を響かせる。 中庭を香しく埋める花々は、巻き起こる風圧にその花弁を白く散らし、 振り下ろされた光に裂かれて、音もなく降り落ちる。 冷たく張り詰めた大気は、触れるもの全てを切り裂くような鋭い殺気に満たされ、 僅かに開いた心の隙間から溢れ出す何かは、まるで闇すら蝕むように辺りを這い回る。
 そんな感覚を覚えて、フェトーは柄を握る自分の手を見下ろすと、 その手に未だ消え残る熱と感触に眉をひそめるようにして、 握りしめていた柄を強く握り直してから、再び暗い虚空を凪払った。

 不意に視界の端で闇が微かに揺らめき、振り抜いた鋭い切先をそのまま真横の暗闇に向けて突きつける。 やがてゆっくりと暗闇から浮かび上がる人影に目を細めると、 フェトーはため息をつきながら構えた腕を下ろした。
「なんだお前か」
「『なんだ』じゃねぇよ。あんまり警備兵をびびらせんな」
 茂みの影から月明りの下へと姿を見せたノーデンスが、 呆れた様子で銀色に輝く切先を指差すのに、フェトーは大きく振り払うようにして、 その柄を短く納めると、乱れた髪を片手で乱雑に払った。
「どうした、何か嫌な事でもあったのか?」
「別に」
「そのわりには荒れてるみたいじゃねーか」
「用は何だ?」
 言葉を遮るようにして鋭い視線を向けるフェトーに、 ノーデンスは肩をすくめながら頭を掻いた。
「皇王からお前に伝言だ」
 その言葉にフェトーは目を細めると、佇まいを直すようにしてノーデンスに向き直る。
「イーダリルに着いたら『ボルの翡翠』と呼ばれる人物に会うように、だとさ」
「ボルの翡翠……ギュミルの『大賢者』と噂の人物にか?」
「ああ、そして『人の身でありながら精霊と契約している』なんて、 妄想にも程がある馬鹿馬鹿しい噂の持ち主でもあるな」
 そう言いながら嘲笑うかのように苦笑したノーデンスは、大袈裟に肩をすくめてから首を振る。

 到底同じ人物を指しているとは思えない、その両極端な噂は、 今からおよそ数十年程前から囁かれ始めた。 それは今ではギュミル国内の人々の間はもちろん、ノーアトーンのエルフ達の間にも伝わっていたが、 それは愚かな人間達による誇大妄想の果ての産物だとして、 その噂をおもしろおかしく話す者達こそ居るが、本気で信じているエルフは、 おそらく誰も居ないだろう。
 『精霊と契約できるのはエルフ族だけ』
 それがこの世界の理であり、その例外があった事実も記録もない。 その『人』が本当に精霊と契約をしているのか、その真偽は定かではないが、 もし仮にそれが事実だとしても、精霊を使役するにはそれ相応の対価が要求される。 それは精神力もしくは生命力であり、心弱く命短い人の身では、 せいぜいその場一瞬限りの使役ができる程度が限界。
 だからこそハイエルフであるノーデンスが、その人を指して嘲笑うのは、 当然の反応といえた。

「なんでまた、そんな人物に会えと?」
「さあな。まさか皇王が噂を信じてるとは思えないけどな」
 肩をすくめるノーデンスの様子に、フェトーは緩く首を振ると、 あまりに曖昧なその命令の、意図するものについて考えを巡らす。
 今更噂の真偽を確かめるつもりはないだろう。 しかし賢者としてギュミル国内において、それなりの地位を持つその人物に会うというのなら、 それはアーブルヘイムとギュミルとの国交にも関わる事になる。 だがそれも、皇士を退役しこの国を離れた自分ではなく、 ノーデンスが使者として出向くのが筋だろう。
 他にもいくつか可能性を考えてはみるものの、どれも矛盾が生じる結果になり、 結局答えを見いだす事は出来ない事に、フェトーは考え込むようにして眉をひそめる。 そんな様子を眺めていたノーデンスは、左腰に手を当てるようにしながら、一つ長い息を吐いた。
「ま、会えばわかるんじゃね?」
「だろうな。用はそれだけか?」
「あぁ、それとな――」
 そう言いながらノーデンスは不意に目を細め、フェトーの視界からその姿を消す。 と、同時に一陣の鋭い風切り音が大気を斬り裂き、銀色の光が闇に散った。
 それは一瞬の出来事だった。
 身を屈めるようにしてフェトーの間合いに踏み込んだノーデンスは、 居合い抜くように鋭い剣の切っ先を薙ぎ払う。しかしその刃は、鞘から抜ききらないままの状態で、 辛うじて身体の横で縦に伸ばすように構えられた、長刀の柄で止められていた。
 しかしノーデンスの刃が止められていたのは一瞬の事、 そのまま長い柄を擦り上げる耳障りな鈍い金属音を立てながら、 手首を返すようにして再び振り下ろされた剣を、フェトーは今度は真正面で受け止める。 再び暗闇に銀色の光と高い金属のぶつかる音が響いた。
「……これは何の真似だ」
「ふん、やっぱ止めるか」
 そう言いながらノーデンスは斬り結ぶ刃を強く押し戻すように弾くと、 後ろに飛び退くようにして間合いを取る。
 互いに刃を向けたままの二人の間を、冷たい風が吹き抜け花弁を散らす。 しかし互いの殺気は、相手を窺うようにして、ただ暗く淀むように横たわっていた。 フェトーが知っている限りでは、互いの実力はほぼ互角。 少しでも気を抜き隙を見せれば、それで勝敗は決まる事は、ノーデンスも良く知っているはず。

「なぁ、フェトー」
 互いを牽制しあい、どれくらいの時間が過ぎたのか。不意に名を呼ぶノーデンスの声に、 フェトーは冷たい光を放つ刀身越しに鋭く睨みつけてから、 踏み込んでいた足を僅かにずらした。小さく刃が音を立てる。
「お前はこの国を護る気はあるか?」
「一体何の話だ」
「何って、ただの素朴な質問じゃないか?」
「ふん、いきなり核心を聞いてくるのは相変わらずだな」
「お前みたいに回りくどいよりはいいじゃないか」
 会話だけを聞いていれば、それはまるで他愛もない世間話のようにも聞こえるが、 二人はそれぞれの間合いを窺うようにして、互いの鋭い切っ先を突きつけ、妖しく瞳の金色を輝かせていた。 撫でて行くように吹き付ける風は、まるで刺すような痛みと寒さを感じさせる。 それは大気が冷えているだけではなく、張り詰めた互いの殺気が満ちているせい。
 風が草木を揺らしていく音だけが響き、黙りこんだ二人に降り注いでいた月明りが、 風に導かれた薄雲に遮られ、足元に落ちる影の輪郭が曖昧に滲む。 互いの瞳に映り込む光も翳り、研ぎ澄まされていた感覚が微かに歪むような気がする。
 不意にノーデンスは小さくため息をついた。
「俺は今日お前に会えて嬉しかったよ。久しぶりだというのもあるけど、 それよりももっと以前の――『あの頃』の本当のお前に会えた気がしてさ」
 そこで一度一息をつくように言葉を止めると、再び月明りが光と影を作り、 何も変わらぬ表情のまま、ただ黙って睨みつけるフェトーを眺めると、 ノーデンスはゆっくりと言葉を繋いだ。
「だからこそ確かめておきたい。お前は今、何を護ろうとしている?」
 その言葉にフェトーは緩慢な瞬きをすると、問われた言葉の意味を自問する。

 何の為に外へ出たのか、そして何の為に偽り続けたのか、 護ろうとしているのはこの国か、この世界か、それとも――
 不意に脳裏に蘇る光景は、闇に輝く白銀の光と緋色に染まった大地。 ただ穏やかに過ぎて行くはずだった時間は一瞬で奪われ、嘆きと絶望の淵で自分自身の破滅すら望んだ。 奪い返そうとする衝動と破滅を望む感情を、ひたすら抑え込む苦痛の時間は、 やがて生きる為の別の意味と、別の時間を探し出した。しかしその代わりに失ったモノ、 そして棄てたモノは少なくなかった。

 ついさっき囚われた幻惑を思い出したフェトーは、ノーデンスに突きつけていた柄を強く握り、 強く奥歯を噛み締める。ただ沈黙の時間だけが過ぎていく。
 やがてノーデンスはその沈黙の長さに、不意に構えていた剣の切っ先を下げる。 身に纏っていた殺気は、まるで風に吹き飛ばされたかのように、跡形もなく掻き消え、 彼はゆっくりと剣を鞘に納めると首を横に振った。
「もういい、お前はこのままここに残れ」
「馬鹿な、そんな事できるわけないだろう」
「まさか『自分にしかできない事』だとでも言うんじゃないだろうな?」
 声を荒げるフェトーに、ノーデンスは冷ややかな視線を向けると、 突きつけられたままの長刀の柄を鎧小手で打ち払う。 構えていた柄を容易く弾き飛ばされ、呆然とするフェトーにノーデンスは詰め寄ると、 そのまま胸倉を片手で掴み上げた。
「これでもまだわかんないのか? 今のお前は『あの時』そっくりだ。 今のままじゃまた同じ過ちを繰り返すだけだ」
「うるさい、黙れ」
 フェトーは低く呻くようにして胸倉を掴む腕を振り払うと、弾かれた刃をもう一度ノーデンスの眼前に突き付ける。 目の前で鋭く光るその切っ先を眺めなら、ノーデンスはただ静かに首を振った。
「お前は明らかに迷っている。お前にとって何が一番大事なのか。何を護るべきかわかっていない」
「そんな事は、ない」
「まさか全てを護ろうなんて、そんな馬鹿げた事は考えてないだろうな」
 そう言いながら嘲笑うような表情に、フェトーは瞳の色を翳らせる。 そしてゆっくりと冷えていくその瞳の色にノーデンスはため息をつくと、 再び剣と鞘が固い金属の擦れる音を立て、鋭く光る切っ先をフェトーを同じように突きつけた。
 向き合う二人の刃は、互いの首筋に冷たい月明かりを反射させた。

「……俺だけは、『本当の』お前の事を覚えていてやるから」


Prev / Next > Top

Purple Moonlit (C) copyright YUKITOMO

inserted by FC2 system