黒き残月

 明け方の空気は薄氷のように冷たく透き通りながら、朝靄に霞む街に澄んだ風の音を響かせ、 高い山の頂を黄金に染める朝の光は、鮮やかなコントラストを山肌に描いていく。

 開け放った窓から吹き込んでくる風に身を委ねるようにして、 フェトーは暫くの間目を伏せていたが、深呼吸をするように息を吐き出し、 そのまま風に靡く長い黒髪を、無造作に後ろに一つに束ね顔をあげた。
 窓の外に広がる穏やかな街並は、朝の光の中で色を取り戻し目覚めていく。 フェトーはもう一度ゆっくりと街並を見渡してから、踵を返し窓に背を向けると、 光がまだ届ききらない薄暗い部屋の奥へ向い、長い廊下へと続く重い扉に手を伸ばした。 だが、その扉に手をかけようとしたのと同時に、扉の向こうから控え目なノックの音が響く。 フェトーは微かに眉をひそめてから扉を開くと、 思いがけず早く開いた扉の向こうで、薄水色の長い髪が驚いたように揺れていた。
「随分お早いですわね。まさか、もう出て行かれてしまうおつもりだったのですか?」
「ああ、世話になった」
 咎めるように見上げる視線から目を逸らすようにして、 フェトーは目を伏せ緩く頭を下げる。 その様子にシローナは小さくため息をつくと、緩く首を横に振ってからフェトーの顔を見上げて、 苦笑に似た笑みを浮かべた。
「いいえ、私はまだ何もお世話などしていませんわ。 それでも世話になったとおっしゃるのなら、その身支度くらい直させて下さいませんか?」
 シローナは宥めるようにしてフェトーを明るい窓際まで連れていき、椅子に座らせると、 乱雑に束ねられていた髪の飾紐を解き、慣れた手つきでゆっくりと黒髪を梳きはじめる。
「こんなに乱雑にしていたら、すぐに痛んでしまいますわ。 『自分の事も大事にして』と、良く言われていましたでしょう?」
 耳元に届くのはどこか楽し気な声と、撫でるように滑っていく櫛と指先の感覚。 窓の外を黙って眺めていたフェトーは、 思い出しかけた何かを思い出さないようにして、そのまま静かに目を伏せた。

 やがて綺麗にまとめられた黒髪を、飾紐で結い直した手が離れた様子に、 フェトーは礼を言いながら立ち上がる。と、その背中にシローナは寄り添うようにして身体を寄せた。
「シローナ?」
「私では、まだ……」
 続く言葉は声にならず、微かに上着を掴む指先に力が入るのを感じたフェトーは、 後ろを向いたまま姿勢で静かに謝罪の言葉を呟く。 その言葉に微かに震えた指先は、やがてため息と一緒に力なく背中から滑り落ちて行った。
「申し訳ありません。また我が侭を言ってしまいました」
 そう言いながら背中から離れていく気配に振り返ると、 半歩足を引くように下がった場所で、シローナは静かに自嘲に似た笑みを浮かべていた。 そして振り向いたフェトーの視線に顔を上げると、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「でも悪いのはフェトー様ですわ。久しぶりにお会いできたのに、 ずっとノーデンス様と一緒なんですもの、我が侭の一つくらい言って困らせたくもなりますわ」
「確かにそうだったな、すまなかった」
「ですから今度戻っていらした時には、ちゃんと私の話相手もしてくださいな。 『姉』と一緒にずっと待っていますから」
 その言葉にフェトーは僅かに表情を曇らせると、 窓の外の澄んだ空の下、山の中腹辺りを見上げるように振り返った。

「そうか、彼女にも『まだ会ってなかった』な」


* * *



 ノーアトーンの街並みを見下ろすような、山の中腹に作られたその場所には、 色とりどりの花が咲き誇り、山から吹き下ろす風にたおやかに揺れていた。
 神殿と同じように、手入れが行き届いた庭園のような敷地には、風の音と草花の揺れる音だけが響き、 静寂の中に大理石で作られた石碑が整然と立ち並ぶ。 その全ての表面には無数の名前が刻まれていた。
 それは墓標――この国で産まれ育ち、そして大地に肉体を還したエルフ達は、 再び巡り来る邂逅の時まで、街を一望できるこの場所で、その魂を静かに眠らせる。
 フェトーは立ち並ぶたくさんの石碑の中でも、まだ新しい黒い大理石の石碑の前に立つと、 足元に置かれた白い蕾の花束を一瞥してから、膝を折るようにして静かに跪いた。 そして艶やかな石肌の刻まれた無数の名前の中から、 刻まれてさほど時の過ぎていない、真新しい名前をみつけると、 フェトーはその名前の綴りを、ゆっくりと指先でなぞるように触れた。
 冷たい空気に晒されている石肌は氷のように冷たく、触れている指先は痛みすら感じさせる。 ふとフェトーは自分の指先を眺め、小さく苦笑を漏らすと、 指先が触れている今は亡き人の名前を呟いた。
「ずっと来ないからって、君の方から会いに来たって事にすればいいのか? 『イスール』」
 石碑に添えられていた花束は、朝の光を浴び緩やかにその花弁を綻ばせ始めていた。 白から紅へと花弁を鮮やかに染めていくその花は、かつて彼女が好んで身に纏っていた香りを放つ。 フェトーはその花を見下ろすと、自分の掌に視線を移してから、 鮮明に刻まれた記憶と消え残る感触に、緩く拳を握り目を伏せた。

「あぁ、やっぱりここに居たか」
 その声にフェトーは俯いていた顔を上げ振り返ると、 静けさに包まれた霊園に、酷く不釣り合いな固い鎧の靴音を響かせながら、 石段を登って来るノーデンスの姿を見つけ、跪いていた膝を伸ばし立ち上がる。
 頭を下げるシローナに軽く挨拶を返したノーデンスは、 そのまま彼女を促すようにして石碑に向って手を差し出す。 その仕草にシローナはもう一度頭を下げると、 フェトーと入れ替わるようにして石碑の前に跪き、静かに『詩』を詠いはじめた。
 『詩巫女』であるシローナの鎮魂の詩は、霊園の澄んだ空気に満ちていく。 その歌声を聞きながら、暫くの間二人は黙って彼女の後ろ姿を眺めていたが、 不意にノーデンスは独り言を呟くように口を開いた。
「本当は今頃お前の名前も、あそこに刻まれていたはずだったんだよな」

 この国に戻り再会した時に見せたノーデンスの驚きの表情。 そして皇王の怒りとシローナの想い。 フェトーが失踪した後、この国で何があったのか、おおよその事を理解するのは容易かった。
 皇王直属の皇士の突然の失踪。おそらくそれなりの時間と人員を割いた捜索はあったのだろうし、 実際そうだったとも聞かされた。それを知っていたからこそ、誰にも居場所を悟られぬように、 そして自分達の存在をこの世界の全てから隠す為に、 フェトーは自分の契約精霊であるバルドルに、十年という長きに及ぶ無茶な命令を強いた。
 初めこそフェトーの身体を気遣い、嫌がる素振りを見せていたバルドルだったが、 精霊の中でも数少ない『選ばれし者(セレクション)』と呼ばれる存在の彼は、 結果として表立った弊害を出す事もなく、それを容易くこなしてみせた。 そうして世界から存在を消した自分の事を、彼等が死んだと思っていたのは当然だったし、 そう思われていなければならなかった。
 今頃バルドルも契約者命令という絶対的な誓約から解放され、自由を満喫しているのかもしれない。 そんな事を考えてから、フェトーは小さく首を横に振ると、目を閉じてため息をついた。
 ただ世界の全てを、そして自分の存在すらも欺き続けた日々から、解放されたかったのは、 他でもない自分自身。きっとどこかでそう願っていた。

「シローナがさ、絶対お前は生きているからって大反対してな。 死んだ者をいつまでも想っていても仕方ないって、俺は何度も言ったんだけどな」
「勝手に人を殺すな」
「文句はお前の有能すぎる契約精霊に言え。よくもまぁ十年も騙してくれたよ。 でもいいじゃないか、お前は本当に生きていたんだし」
 そう言いながら肩をすくめて苦笑する顔に、 フェトーは口元だけで小さく苦笑を返すと、ノーデンスは不意に眉をひそめた。
「でも彼女にとってお前が生きていた事は、本当に良かったのかどうか、俺は疑問だけどな」
 そう言いながらノーデンスは、風に揺れる薄水色の長い髪の後ろ姿を眺めてから、 ため息をつくように息を吐くと、吹き抜けた風に顔を上げ、高い空を流れて行く雲を眺めた。

 やがて歌声が止みシローナはゆっくりと立ち上がる。 その様子に二人は口を噤むと、服の裾を軽く払ってから振り返ったシローナは、 軽く首を傾げてから微笑みを浮かべた。
「お二人で何のお話をされていたのですか?」
「こいつの有能な契約精霊様の自慢話を聞いていた」
 異論の声をあげるフェトーに肩をすくめながら、ノーデンスは石碑に近寄ると、 シローナの隣に立って石碑に向って緩く頭を下げる。 足元の花束の蕾はすっかり花開き、満開となった紅色の花束は、辺りを香りで満たしていた。
「でもいくら有能な奴だとしても、過去は、起きてしまった事は変えられないだろう?」
 呟くノーデンスは足元の花束から一輪抜き取ると、そのまま後ろを振り返り、 フェトーの横を通り過ぎながら、その花を手渡した。
「まぁせいぜい頑張れよ、生きてりゃそのうちまた会えるだろうしな」
 そう言いながら笑みを浮かべたノーデンスは、上げた片手を軽く振ると、 緩やかな曲線を描く石畳の坂道を、固い金属の音を響かせてゆっくりと下っていった。

 やがて後ろ姿が見えなくなる間際、吹き抜けた風に舞い上がった花弁が蒼い空を舞う。 その光景に一度だけ立ち止まり、暫く空を見上げてから再び歩き出したその背中は、 二度と振り返る事はなかった。


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