逢月の緑

 地に伏す碧が天を包み、天の紅が地に抱かれる。
 鎮静に広がる紫紺の空に静穏と光るのは、闇紫を滲ませた二つの月。 全てが始まった時からずっと、この世界を支配していた月の色は、 忘れてはならない、忘れる事のできない記憶を呼び覚まし、 自分が何者なのかを思い知らせる。

 目を醒したのは、朝の光を迎え入れる間際の夜が、 全ての物音すら呑み込んで、静寂で辺りを包みこんだ深い漆黒の中。 夜明け間際の冷えた大気が漂う部屋で、ぼんやりと見上げた薄暗い天井には、 仄かな明かりと影が微かに揺らめいていた。
 その光景に緩く瞬きをしてから、夕べ、半ば無理矢理押し込められた寝台の上で、 ゆっくりと体を起こし辺りを見回すと、 窓辺から落ちる冷たい月明りを背にした自分の影が、長く床に伸びたその先で、 すっかり小さくなった暖炉の明かりを瞼に受けながら、 椅子の肘掛けに頬杖をつくようにして眠っている横顔が目に映る。 その様子に小さく息を吐いて、窓の外の傾いた月を一度振り返ると、 物音を立てないようにして冷えた床に足を下ろした。

 いつもよりもゆっくりとした足取りで、軋む床に肩をすくめながら、 静かに暖炉の前を横切り、椅子で眠るその隣を通り過ぎる。 息を潜めて見下ろす横顔は目を醒す様子はなく、 小さく安堵のため息をつくと、部屋の外へと続く扉の方へと視線を向けた。
「……どこに行くんだ?」
 不意に声をかけられて、驚いたように振り返ると、 椅子にもたれたままの姿勢で、薄く開いた翠の瞳が見つめていた。
「起きてたの?」
「いや、今起きたとこ」
 そう言いながら気怠く椅子に座り直すリーグの様子に、 ヴィルダは潜めていた息を吐き出すようにしてため息をつくと、 申し訳なさそうな顔で俯いた。
「ごめんなさい。起こさないようにって気をつけたんだけど」
「人の気配に敏感なのは職業柄だから、こればっかりは仕方ない」
 肩をすくめて苦笑するリーグの言葉に、ヴィルダは首を横に振ると、 もう一度小さく「ごめんなさい」と呟いた。 その様子にリーグは頬杖を外して顔をあげると、 顔の前で掌を組んでから、裏返すようにして肘を伸ばした。
「んで、どこ行くんだ?」
「あ、えっと……ちょっと喉が渇いたから、お水もらって来ようかと思って」
 最初に声をかけられた時と同じ質問に、ヴィルダは俯いていた顔を上げると、 一瞬口ごもるようにしてから言葉を選ぶ。 その様子にリーグは僅かに目を細めると、俯くヴィルダの表情を眺めてから、 不意に口元に掌を当てて欠伸をかみ殺した。
「なんだ、じゃあ俺はもう一眠りするかな」
 そう言いながらマントの裾で体を包むようにして、 目を閉じたリーグの様子にヴィルダは緩く瞬きをすると、 予想に反した返事に思わず声を上げかけて、何かを思い出したように口を噤んだ。 それから呼吸を整えるように息を吐き出すと、 緩く口元に笑みを浮かべて、ゆっくりと暖炉の前まで戻り、 目を伏せるリーグの顔を見下ろした。
「寝台に行かないの?」
「んー、ここでいいよ」
「でもそんな所で寝てたら風邪引かない?」
「だーいじょうぶ、だいじょーぶ」
 目を閉じたまま、軽い口調で答えるリーグの様子に、 ヴィルダは思わず肩をすくめると、もう一度寝台へ促すつもりでリーグの肩に触れようとして、その手を止めた。
 暖炉で燻る炎は消えかけ、僅かばかりの光を放つ。 だがその暖かな光は、目を閉じる瞼の上で琥珀色の髪を黄金の光で縁取り、 静かに繰り返す呼吸にあわせて、柔らかく輝き揺れていた。
 その光をしばらく眺めていたヴィルダは、月明りの差し込む窓辺へと視線を移してから、思い直したように首を振ると、 冷えた寝台の上から薄い毛布だけを取って戻り、リーグにそれを手渡した。
「じゃあせめてこれだけでも使って」
「あーありがと」
 受け取った毛布で体を包んだリーグは、そのまま再び目を閉じる。 その様子にヴィルダは肩をすくめて、しばらくその顔を見下ろしていたが、 不意に何かに気がつき、目を細めるようにして緩く笑ってから、 感謝の言葉を呟いて背中を向けた。
 小さく扉の閉まる音が響いた部屋の中で、微かに黄金色の光が震え、揺れていた。


* * *



 気づいた時には一人だった。

 どこまでも続くような冷たい闇の中で、遠くで輝く月明かりだけが足下を照らす。 まるで見失った答えを探すように、彷徨い続けてどれくらいの時が過ぎたのだろうか、 不意に響いた水滴の落ちるような音が、心の奥に小さな波紋をたてる。
 それはやがて漣のように次々に押し寄せ、逃れるように差し伸べた指先はすがる場所を、 そして誰かを求めるようにして、果てのない闇の中を一人彷徨い続ける。
 耳元で囁く柔らかな声と、見守る優しい視線と、 触れる温かい指先。それは当たり前の事だと思っていた。 でも今は闇の中にたった一人。聞こえてくる声は途切れるように掠れ、見つめる視線は遠く逸れて、 触れる指先は冷たく凍えるだけ。
 こんな風になったのは一体いつからだったのか、思い出そうとしても思い出せず、 忘れてしまった記憶と、忘れようとして忘れた記憶を手繰り寄せ、 ようやく繋ぎ合わせて思い出した人の姿は、暗闇に紛れるような曖昧な影。
 その人影の名前を声に出そうとして、ふと気がつく。
 本当に自分はこの人を知っているのか? 本当は何も知らない人じゃないのだろうか? その視線は一体誰を見ているのか? そして何を考えてるのか。

――知りたい?――

 不意にどこからともなく声が響く。 その声に驚き振り返った視線の先で、滲むような人影が暗闇の中に浮かび上がる。 いつの間にか闇よりも暗い人の影は、立ち止まった背中の数歩後ろに立っていた。 しかしいくら目を凝らしてみても、その顔は闇に紛れ見えなかった。

――何を考えているのか? そして何を求めているのか?  その想いの全てを、本当に知りたい?――

 静かに語りかけるようなその声は、いつか聞いた覚えがある声のような気がして、 緩く瞬きをしてから小さく頷くと、闇の中でその人影は、 見えない口元を微かに緩めるようにして笑った――気がした。

――じゃあ教えてあげるよ――

 不意に誰かに自分の名前を呼ばれた気がして、声の聞こえた方を振り返ると、 漆黒の闇の中にまた別の人影が滲む。 語りかけて来た声の主と同じように、その人物の顔は闇に閉ざされていたけれども、 その気配に懐かしさと安堵を覚えて『覚えていた』名前を呼んだ。
 しかし声になって聞こえたのは全く別の、でも『よく知っている』名前。 その声に驚いたように人影は揺らめくと、まるで悲しむかのように、そのまま音もなく掻き消える。
 慌てて辺りを見回してみても、果てない漆黒の闇が広がるだけで、 自分の足下さえも見えない暗闇の中に、再び一人取り残された気がして、 喪失、孤独、絶望、悲哀、そんな感覚の全てが一気に押し寄せてくるのに、 思わず目を伏せるようにして俯いた。
 その様子にため息をつくように、暗闇の奥から静かに声が響く。

――どうしてその名前を呼んだ? そこに居るのは誰だと思った?――

 問いかける声に俯く顔を上げると、見えないはずの瞳が自分を真っ直ぐ見つめている感覚から、 逃れるようにして再び目を伏せた。
 さっきの人影は一体誰だったのだろうか。傍に居てくれる人、見守ってくれる人、 護る人、護られている人、そして護りたい人の顔も、そして名前も今はまた誰一人として思い出せない。
 淀んだ思考を振り払うようにして頭を振ると、まるで幼子を宥めるかのように柔らかな声が届く。

――そうか、まだわからないんだね。でももうすぐ全ての答えは見えてくる。再び『全ての時間』は動いているのだから。 過去だけがいつまでも過去ではない。今も、そしてこれから……――

 不意にそこで言葉が途切れると、暫くの間を置いてから、 自嘲じみた笑い声が暗闇の奥から微かに響く。

――残念だけど『こちらの時間』は終わってしまったみたいだ。 この話の続きはまた今度にしよう。その時は……もう少し………君………――――

 言葉は掠れるようにして途切れ、微かに響く笑い声だけを闇に残して、 人影は紫に煙る暗闇に溶けて消えた。
 その闇をしばらく見つめてから、ため息をついて背を向けると、 視線の先で柔らかな光が滲むように広がっていく。 それはまるで目醒めを促すように、冷たく閉ざされた闇を溶かしていく。
 眩く暖かな光に包まれて、ようやく自分が向かおうとしていた場所を思い出すと、 次第に薄れ消えていく暗闇を、もう一度だけ振り返ってから歩き出した。


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