逢月の緑
結局ヴィルダが部屋に戻ってきたのは、燻っていた暖炉の炎が消えかかり、
夜明け間際の冷たく澄んだ紫紺の空で、傾く月が静かに最後の光を放つ頃。
出て行く時と同じように、足音を忍ばせて横を通り過ぎていくその様子に、
リーグは目を閉じたままでやり過ごすと、
椅子の背中越しに寝台の軋む音を聞いてから、夜明けの気配を背中に感じ、小さく息を吐き眠りについた。
やがて地平線の向こうに滲み始めた一筋の光は、高い山の頂を白く輝かせ、
床の上に光と影の境界を描き、新しい一日を連れて来る。
窓の外から聞こえて来る、通りを行き交う人々の微かなざわめきが部屋に響き始めた頃、
短い眠りから目覚めたリーグは、物音をたてないように静かに椅子から立ち上がると、
両腕を伸ばしながら後ろを振り向いた。
視線の先では明るい日差しの差し込む窓際の寝台で、シーツに包まるようにして眠っているヴィルダの姿。
その様子にリーグはそのまま何かを探すようにして、翠の視線を部屋の中を彷徨わせたが、
やがて諦め混じりのため息をついてから頭を掻くと、独り言を呟くようにして天井を見上げた。
「なぁ、どこかに居るんだろ? 俺はちょっと出かけてくるから後は頼むな」
リーグの声に言葉を返せるような者の姿は、眠っているヴィルダ以外に部屋の中には見当たらない。
しかしこの部屋の中には、いつもフェトーに付き従っている者と、
そしてヴィルダを守護する者。『精霊』達が居た。
――いや『居る』と出かける間際にフェトーに説明されていた。
彼等の姿形やその声を確認する術を持たないリーグは、
どこからともなく返事をする声が聞こえたような気だけを感じて、
もう一度辺りを見回してから肩をすくめると、裏に羽織ったマントの襟元を掻き合わせてから、
ざわめきを生む町の通りへと向かった。
ノーアトーンの白い山並みを見上げる街の通りを行き交う人の中には、
旅人達に混じるように幾人かのエルフの姿が見え隠れする。
聖地に住む事のできない一部のエルフ達は、この街に隣接するように小さな集落を構え、
こうして時折街に顔を見せていた。
ギュミル国内において首都イーダリル以外の街で、人とエルフが共存する光景は比較的珍しい。
だがこの街のそれは『共存』と呼ぶには程遠いものだった。
彼等は同じ場所を行き交い、同じように過ごしてはいるが、
その完璧なまでの無関心さは、まるで互いの存在が見えていないかのようにも見えた。
エルフ達にとってこの地は、聖地と呼ばれる崇められる神聖な場所。
人間達にとってこの地は、糧を得て生活する為の狩猟の場所。
同じ物を捉えて異なってしまった互いの考え方のすれ違いは、
長き対立の時を経て、暗く澱んだ大きな溝を作り出した。
やがてその深い溝は、疎むべき相手の存在全てを呑み込んでいく。
憎む為には憎むべき相手が必要。蔑む為にも見下す相手が必要。
しかし互いがそこに存在している事を認めていなければ、
憎むべき相手も蔑むべき相手も、そこには存在しない事と同義。
『有』を『無』と思う事。見えているのに見ようとしない。
それは憎む事よりも蔑む事よりも、遥かに激しい拒絶の証。
しかしその結果、種族間での争いは起きる事はなくなり、
この街に住む彼等は上辺だけの平穏な日々を甘受していた。
そんな歪な街の在り方に、酷い嫌悪感を感じたリーグは、険しく眉を潜めると、
吐き捨てるような息を吐いて、マントのフードを深く被り顔を伏せる。
そして取り繕われた感情に満ちた通りから、細い路地へと続く角を曲がった。
細い路地を抜けた先の裏通りには、旅人相手の露店が立ち並ぶ表通りとは違い、
この街の人々が生活する為に必要な、日用品や食料品を扱う小さな店がいくつか立ち並ぶ。
エルフや旅人が行き交う表通りで、店先で声をかける人々の仮面のような愛想笑いとは違い、
豊かな表情を見せる店主や客の様子に、リーグは安堵のため息をついてから伏せていた顔を上げると、
店先に並んだ品物を覗き込みながら歩いていった。
特に気になる物も変わった話も聞く事もなく、何軒目かの店先を覗き込んだリーグが、
そろそろ戻ろうかと空を見上げた時、不意に怒声と何かが崩れる物音が通りに響いた。
怪訝な顔をして物音の聞こえた方へと視線を向けると、
通りを行き交っていた人々が、路地の一角で次第に人垣を作っていく様子が目に映る。
リーグはその光景に暫く視線を留めていたが、もう一度空を見上げると、
空高く昇った日差しの指し示す時間に目を細めた。
そろそろヴィルダも目を醒す頃だろう、部屋で帰りを待つ後ろ姿を思い出したリーグは、
フードを深く被り直して顔を背けるようにして踵を返した。
――が、人垣の向こうから聞こえてきた罵声と、
人々の肩越しに垣間見えた光景に、思わず目を見開き足を止める。
そして奥底に潜めていた感情が、ゆっくりと曖昧だった輪郭を明確にするのを感じて、
リーグは諦めたように緩く首を横に振ると、再びその足を人垣の方へと向けた。
遠巻きに眺めている人の肩越しに中の様子を窺うと、
売り物を店先に散らかして半分崩れた露店の店先で、
何度も頭を下げている店主らしき人と、店を取り囲むような数人の男達の後ろ姿が目に映る。
おそらく彼等はどこの街にでもいる無法者か、流れてきた旅人の類だろう。
何かしら言い掛かりを付け、店主を脅しているようなその様子に、
遠巻きに眺める人々の囁きは、次第にざわめきとなって大きくなる。
その声に男達の一人は振り返ると、苛立つ表情を見せつけるようにして、取り囲む人々の方へと足を向けた。
「なんだてめーら? 見せモンじゃねーぞ」
声を荒げながら男が振り回した剣は、光を反射し風を切り、
人垣を作っていた人々は、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
前に居た人々がすっかり居なくなり、その場に一人残るような形になったリーグが、
周りに視線を向けてから、改めて男の方へと視線を向けるのと、
優越感に満ちた表情で胸を反らした男が、リーグの姿に気がついたのはほぼ同時。
男はくすんだ銀色の光を見せつけるようにして、再び剣を振り回しながらリーグの方へと近寄る。
「なんだぁお前? 何か文句でもあるのか?」
挑発するように剣の切っ先を目の前で揺らし、不機嫌そうな低い声の男の様子に、
リーグは被ったフードの奥で小さく舌打ちをした。
別に逃げ遅れた訳でも、その場に残り文句を言おうと思った訳でもない。
ただ自分の前に居た人々が居なくなっただけの事。
店主に絡み続けている男達の後ろ姿に視線を向けてから、
リーグは目の前の男に向かって肩をすくめてみせた。
「別に。ただの通りすがりだけど」
そう言いながら両手を軽く振って笑って見せれば、
不機嫌そうに眉を顰めた男は、剣の切っ先をリーグの鼻先に突きつける。
そして突きつけられた切っ先に、微動だにもせずただ黙ったままのリーグの様子に、
男は再び険しく眉を顰めた。
「その割には良い度胸してるじゃないか?」
「だからー。あんたらと遊んでる暇なんてないって」
そう答えてから、リーグは自分の行動の矛盾さに思わず苦笑を漏らす。
そんなリーグの様子に、男は突きつけていた切っ先で、リーグが被っていたフードを跳ね上げた。
「てめぇ何笑ってやがる」
切っ先が掠めた前髪から、幾筋かの髪が風に散る。
その様子に僅かに眉を顰めたリーグの表情に、
男は醜悪な笑みを浮かべると、リーグの肩に刃先を乗せた。
「謝るのなら今のうちだぜ? 『申し訳ありませんでした』と土下座するか、
金目の物を置いていくってのなら、まぁ許してやってもいいけどな」
「……」
ざわめきを乗せて吹き抜けた風は、耳元で小さく乾いた音を立てる。
跳ね上げられたフードを再びゆっくりと被り直しなおしたリーグは、
沸き上がって来る感情を抑えるようにして、暫く掌で口元を押さえていたが、
やがてため息をついて顔を上げた。
「ったく……しばらく大人しくしてようと思ったのに、やっぱ駄目だな」
「一人で何をごちゃごちゃ言って――」
男が言葉を言い終わる前に、リーグは突きつけられたままの刀身の腹を手甲で鋭く払い飛ばす。
不意を突かれた出来事に思わずバランスを崩した男が、
憎悪に満ちた視線を向けてくるのを、冷ややかな視線で返したリーグの口端には、微かに笑みが滲んでいた。
「ほんと、この馬鹿さ加減には呆れるって」
「何だと! てめぇ!」
リーグの言葉に一際大きく怒声を上げる男の声に、
露店の店先で店主に絡んでいた男達が、一斉に後ろを振り返り二人の方へと足を向ける。
その様子に因縁をつけられ地面に座り込んでいた店の主が、
路地の奥へと逃げて行くのを視界の端で見送ってから、
リーグは男達に視線を向けて目を細めた。
男達の数は五人。
彼等は暫く警戒したように辺りの様子を見回し、
対峙する相手がリーグ一人である事を確認すると、
それぞれの手に武器を構えながら、ゆっくりとした足取りでリーグの傍へと近寄って来る。
「なんだなんだ、俺達に何の用があるって?」
「逃げてったオヤジの代わりに、お前が金を払ってくれるのか?」
手にした武器を見せつけるように振り回しながら、男達はリーグの周りを取り囲む。
その様子にリーグは鼻を鳴らすようにして緩く首を横に振った。
逃げ出していた街の住人達は、いつの間にか再び遠巻きに人垣を築き、
リーグと男達のやり取りに聞き耳を立てる彼等の声には、
期待と滲むような妬情が混じる。
吹き抜けた風に翻ったマントの下で、剣の鞘が微かに揺れて音を立てた。
けして争う事が好きな訳ではない。むしろ他人を傷つけるような真似は、
一番避けたい事柄の筆頭にあげられる。
しかし虚飾に彩られた安寧な世界の中で、
自分が産まれた意味も、自分自身の存在すら見つける事ができずに、
流されるように剣を手にする道を選ぶと、いつしか進んで争いの中に身を投じるようになった。
それは誰かを護っている、そして誰かに頼られているという優越感に浸るためではなく、
誰かと対峙し憎しみの目を向けられる事、その瞳の中に映っている姿が、自分という存在であり、
この場に確かに実在するという事を、確かめようとしていたのかもしれない。
そこは憎悪と劣情に満たされた世界。
だがそんな世界を否定してしまえば、今まで生きて来た意味も、自分の存在の意味も、
何もかもが無に帰して全てが終わる気がした。
だからこそよく似ている物を否定して、自分自身を誤摩化す。
それは最も簡単で最も卑怯なやり方。
「ほんと、馬鹿だ」
この街の存在を忌み嫌う理由、そして瞳にずっと映っていなかった自分の姿を、
ここに見つけてしまった事に、リーグは小さく苦笑を漏らすと、
翠の瞳に浮かべていた光を、伏せるようにしてゆっくりと消した。
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