逢月の緑

 結局ヴィルダが部屋に戻ってきたのは、燻っていた暖炉の炎が消えかかり、 夜明け間際の冷たく澄んだ紫紺の空で、傾く月が静かに最後の光を放つ頃。
 出て行く時と同じように、足音を忍ばせて横を通り過ぎていくその様子に、 リーグは目を閉じたままでやり過ごすと、 椅子の背中越しに寝台の軋む音を聞いてから、夜明けの気配を背中に感じ、小さく息を吐き眠りについた。

 やがて地平線の向こうに滲み始めた一筋の光は、高い山の頂を白く輝かせ、 床の上に光と影の境界を描き、新しい一日を連れて来る。 窓の外から聞こえて来る、通りを行き交う人々の微かなざわめきが部屋に響き始めた頃、 短い眠りから目覚めたリーグは、物音をたてないように静かに椅子から立ち上がると、 両腕を伸ばしながら後ろを振り向いた。
 視線の先では明るい日差しの差し込む窓際の寝台で、シーツに包まるようにして眠っているヴィルダの姿。 その様子にリーグはそのまま何かを探すようにして、翠の視線を部屋の中を彷徨わせたが、 やがて諦め混じりのため息をついてから頭を掻くと、独り言を呟くようにして天井を見上げた。
「なぁ、どこかに居るんだろ? 俺はちょっと出かけてくるから後は頼むな」
 リーグの声に言葉を返せるような者の姿は、眠っているヴィルダ以外に部屋の中には見当たらない。 しかしこの部屋の中には、いつもフェトーに付き従っている者と、 そしてヴィルダを守護する者。『精霊』達が居た。 ――いや『居る』と出かける間際にフェトーに説明されていた。
 彼等の姿形やその声を確認する術を持たないリーグは、 どこからともなく返事をする声が聞こえたような気だけを感じて、 もう一度辺りを見回してから肩をすくめると、裏に羽織ったマントの襟元を掻き合わせてから、 ざわめきを生む町の通りへと向かった。


* * *



 ノーアトーンの白い山並みを見上げる街の通りを行き交う人の中には、 旅人達に混じるように幾人かのエルフの姿が見え隠れする。 聖地に住む事のできない一部のエルフ達は、この街に隣接するように小さな集落を構え、 こうして時折街に顔を見せていた。
 ギュミル国内において首都イーダリル以外の街で、人とエルフが共存する光景は比較的珍しい。 だがこの街のそれは『共存』と呼ぶには程遠いものだった。 彼等は同じ場所を行き交い、同じように過ごしてはいるが、 その完璧なまでの無関心さは、まるで互いの存在が見えていないかのようにも見えた。

 エルフ達にとってこの地は、聖地と呼ばれる崇められる神聖な場所。 人間達にとってこの地は、糧を得て生活する為の狩猟の場所。
 同じ物を捉えて異なってしまった互いの考え方のすれ違いは、 長き対立の時を経て、暗く澱んだ大きな溝を作り出した。 やがてその深い溝は、疎むべき相手の存在全てを呑み込んでいく。
 憎む為には憎むべき相手が必要。蔑む為にも見下す相手が必要。 しかし互いがそこに存在している事を認めていなければ、 憎むべき相手も蔑むべき相手も、そこには存在しない事と同義。
 『有』を『無』と思う事。見えているのに見ようとしない。
 それは憎む事よりも蔑む事よりも、遥かに激しい拒絶の証。 しかしその結果、種族間での争いは起きる事はなくなり、 この街に住む彼等は上辺だけの平穏な日々を甘受していた。

 そんな歪な街の在り方に、酷い嫌悪感を感じたリーグは、険しく眉を潜めると、 吐き捨てるような息を吐いて、マントのフードを深く被り顔を伏せる。 そして取り繕われた感情に満ちた通りから、細い路地へと続く角を曲がった。
 細い路地を抜けた先の裏通りには、旅人相手の露店が立ち並ぶ表通りとは違い、 この街の人々が生活する為に必要な、日用品や食料品を扱う小さな店がいくつか立ち並ぶ。 エルフや旅人が行き交う表通りで、店先で声をかける人々の仮面のような愛想笑いとは違い、 豊かな表情を見せる店主や客の様子に、リーグは安堵のため息をついてから伏せていた顔を上げると、 店先に並んだ品物を覗き込みながら歩いていった。

 特に気になる物も変わった話も聞く事もなく、何軒目かの店先を覗き込んだリーグが、 そろそろ戻ろうかと空を見上げた時、不意に怒声と何かが崩れる物音が通りに響いた。
 怪訝な顔をして物音の聞こえた方へと視線を向けると、 通りを行き交っていた人々が、路地の一角で次第に人垣を作っていく様子が目に映る。 リーグはその光景に暫く視線を留めていたが、もう一度空を見上げると、 空高く昇った日差しの指し示す時間に目を細めた。
 そろそろヴィルダも目を醒す頃だろう、部屋で帰りを待つ後ろ姿を思い出したリーグは、 フードを深く被り直して顔を背けるようにして踵を返した。 ――が、人垣の向こうから聞こえてきた罵声と、 人々の肩越しに垣間見えた光景に、思わず目を見開き足を止める。
 そして奥底に潜めていた感情が、ゆっくりと曖昧だった輪郭を明確にするのを感じて、 リーグは諦めたように緩く首を横に振ると、再びその足を人垣の方へと向けた。

 遠巻きに眺めている人の肩越しに中の様子を窺うと、 売り物を店先に散らかして半分崩れた露店の店先で、 何度も頭を下げている店主らしき人と、店を取り囲むような数人の男達の後ろ姿が目に映る。
 おそらく彼等はどこの街にでもいる無法者か、流れてきた旅人の類だろう。 何かしら言い掛かりを付け、店主を脅しているようなその様子に、 遠巻きに眺める人々の囁きは、次第にざわめきとなって大きくなる。 その声に男達の一人は振り返ると、苛立つ表情を見せつけるようにして、取り囲む人々の方へと足を向けた。
「なんだてめーら? 見せモンじゃねーぞ」
 声を荒げながら男が振り回した剣は、光を反射し風を切り、 人垣を作っていた人々は、まるで蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。 前に居た人々がすっかり居なくなり、その場に一人残るような形になったリーグが、 周りに視線を向けてから、改めて男の方へと視線を向けるのと、 優越感に満ちた表情で胸を反らした男が、リーグの姿に気がついたのはほぼ同時。
 男はくすんだ銀色の光を見せつけるようにして、再び剣を振り回しながらリーグの方へと近寄る。
「なんだぁお前? 何か文句でもあるのか?」
 挑発するように剣の切っ先を目の前で揺らし、不機嫌そうな低い声の男の様子に、 リーグは被ったフードの奥で小さく舌打ちをした。
 別に逃げ遅れた訳でも、その場に残り文句を言おうと思った訳でもない。 ただ自分の前に居た人々が居なくなっただけの事。 店主に絡み続けている男達の後ろ姿に視線を向けてから、 リーグは目の前の男に向かって肩をすくめてみせた。
「別に。ただの通りすがりだけど」
 そう言いながら両手を軽く振って笑って見せれば、 不機嫌そうに眉を顰めた男は、剣の切っ先をリーグの鼻先に突きつける。 そして突きつけられた切っ先に、微動だにもせずただ黙ったままのリーグの様子に、 男は再び険しく眉を顰めた。
「その割には良い度胸してるじゃないか?」
「だからー。あんたらと遊んでる暇なんてないって」
 そう答えてから、リーグは自分の行動の矛盾さに思わず苦笑を漏らす。 そんなリーグの様子に、男は突きつけていた切っ先で、リーグが被っていたフードを跳ね上げた。
「てめぇ何笑ってやがる」
 切っ先が掠めた前髪から、幾筋かの髪が風に散る。 その様子に僅かに眉を顰めたリーグの表情に、 男は醜悪な笑みを浮かべると、リーグの肩に刃先を乗せた。
「謝るのなら今のうちだぜ? 『申し訳ありませんでした』と土下座するか、 金目の物を置いていくってのなら、まぁ許してやってもいいけどな」
「……」
 ざわめきを乗せて吹き抜けた風は、耳元で小さく乾いた音を立てる。 跳ね上げられたフードを再びゆっくりと被り直しなおしたリーグは、 沸き上がって来る感情を抑えるようにして、暫く掌で口元を押さえていたが、 やがてため息をついて顔を上げた。
「ったく……しばらく大人しくしてようと思ったのに、やっぱ駄目だな」
「一人で何をごちゃごちゃ言って――」
 男が言葉を言い終わる前に、リーグは突きつけられたままの刀身の腹を手甲で鋭く払い飛ばす。 不意を突かれた出来事に思わずバランスを崩した男が、 憎悪に満ちた視線を向けてくるのを、冷ややかな視線で返したリーグの口端には、微かに笑みが滲んでいた。
「ほんと、この馬鹿さ加減には呆れるって」
「何だと! てめぇ!」
 リーグの言葉に一際大きく怒声を上げる男の声に、 露店の店先で店主に絡んでいた男達が、一斉に後ろを振り返り二人の方へと足を向ける。 その様子に因縁をつけられ地面に座り込んでいた店の主が、 路地の奥へと逃げて行くのを視界の端で見送ってから、 リーグは男達に視線を向けて目を細めた。
 男達の数は五人。 彼等は暫く警戒したように辺りの様子を見回し、 対峙する相手がリーグ一人である事を確認すると、 それぞれの手に武器を構えながら、ゆっくりとした足取りでリーグの傍へと近寄って来る。
「なんだなんだ、俺達に何の用があるって?」
「逃げてったオヤジの代わりに、お前が金を払ってくれるのか?」
 手にした武器を見せつけるように振り回しながら、男達はリーグの周りを取り囲む。 その様子にリーグは鼻を鳴らすようにして緩く首を横に振った。
 逃げ出していた街の住人達は、いつの間にか再び遠巻きに人垣を築き、 リーグと男達のやり取りに聞き耳を立てる彼等の声には、 期待と滲むような妬情が混じる。
 吹き抜けた風に翻ったマントの下で、剣の鞘が微かに揺れて音を立てた。

 けして争う事が好きな訳ではない。むしろ他人を傷つけるような真似は、 一番避けたい事柄の筆頭にあげられる。 しかし虚飾に彩られた安寧な世界の中で、 自分が産まれた意味も、自分自身の存在すら見つける事ができずに、 流されるように剣を手にする道を選ぶと、いつしか進んで争いの中に身を投じるようになった。
 それは誰かを護っている、そして誰かに頼られているという優越感に浸るためではなく、 誰かと対峙し憎しみの目を向けられる事、その瞳の中に映っている姿が、自分という存在であり、 この場に確かに実在するという事を、確かめようとしていたのかもしれない。

 そこは憎悪と劣情に満たされた世界。 だがそんな世界を否定してしまえば、今まで生きて来た意味も、自分の存在の意味も、 何もかもが無に帰して全てが終わる気がした。 だからこそよく似ている物を否定して、自分自身を誤摩化す。 それは最も簡単で最も卑怯なやり方。

「ほんと、馬鹿だ」

 この街の存在を忌み嫌う理由、そして瞳にずっと映っていなかった自分の姿を、 ここに見つけてしまった事に、リーグは小さく苦笑を漏らすと、 翠の瞳に浮かべていた光を、伏せるようにしてゆっくりと消した。


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