逢月の緑

 いつもなら人のざわめきが溢れる通りは、 張りつめた空気と固唾を呑む人の息が支配する。

 いつの間にかリーグ達を取り囲むようにして、再び人垣を作った住人達から向けられるのは、 争いを嫌悪するような侮蔑の視線と、娯楽を楽しむような好奇の視線。 表面上は争いの少ない穏やかな街と住人達。 しかしそれは対外的な体裁を整えるためだけに、 抑圧された感情と隠蔽された真実を、互いに悟られぬように心の奥底深くにしまいこみ、 外から来る者達を牽制しているようにも見えた。
 そんな視線を背中に受けながら、リーグは深く被ったフードの下で目を細めると、 自分を取り囲む男達の様子を見定めるようにゆっくりと瞳を巡らせる。
「遊ぶんなら自分達だけで遊んでろよなぁ」
 ため息混じりの息を吐いて肩をすくめるリーグの様子に、 男達は互いの顔を見合わせ下卑た嘲笑を浮かべると、 それぞれ手にした得物を見せつけるように無造作に振り回す。
「あぁん? 今頃怖じ気づいたとか言い出してんじゃねぇぞ」
「貴様のせいで店のおやじに逃げられたんだ、最後まできっちり付き合ってもらわないとな」
 口々に威嚇と罵声を飛ばす男達の様子に、 リーグは肩をすくめて緩く首を横に振ると、自嘲の笑みを隠すようにしながらゆっくりと息を吐き、 身に纏っていたマントの裾を右手の甲で強く払った。
 マントのくすんだ色は吹き抜けた風を孕み、鮮やかな翠を白日の下に晒すように翻る。 同時にその色を切り裂くようにして銀の光が弧を描き、耳障りな高い金属音が一つ通りに響いた。
「……っと、焦んなよ」
 不意に大きく翻ったマントとリーグの動きに反応した男の一人が、鋭く横に薙いだ切っ先は、 マントの下から引き上げるようにして構えた剣の鞘に動きを止められ、耳障りな音を軋ませていた。 銀色の光越しに憤怒の表情を歪めた男の様子に、リーグは緋色の宝玉が輝く鞘越しに目を細め薄く笑みを浮かべると、 僅かに身を屈めて剣を押し戻しながら後ろに飛び下がった。
「まぁ、どうしてもって事なら仕方ない」
 風に揺れていたマントの裾は少し遅れてリーグの身体に寄り添う。

「五対一なら軽い運動程度には相手になってくれるんだよな?」


* * *



 鋭い風斬り音を掠めるように身を躱し、 降り掛かってくる幾筋もの銀の光を鞘に納めたままの剣で受け流す度、 マントの裾は緩く風を撫でる。 いつしか男達の表情に浮かんでいた軽薄な笑みは消え、その視線には焦燥感と憎悪が増していた。
 おそらく男達にはそれなりの度胸や力、そして競い争う腕にも自他共に認められるものはあるのだろう。 だが日々訓練している兵士相手、ましてや正規軍の騎士相手では、その自負は虚勢程度にすぎなかった。
 もしここでリーグが一振りでも剣を抜きさえすれば、 まるで子供と大人の喧嘩に等しいこの茶番にケリをつけるのは容易い事だろう。 だがここに集まってしまっている住人達の手前、できるだけ穏便にそしてただの諍いや喧嘩に見えるように。 理想を言うのなら、男達や住人達がこの茶番に飽きて立ち去ってくれるのが一番有り難い。
 そんな事をぼんやりと考えながら、リーグは男達の後ろに視線を投げると、 取り囲む住人達の視線に滲むさっきとは違う色に思わず苦笑を漏らした。
 それは呆れと蔑み。好奇に混じりはじめたその視線に、そろそろ潮時かとリーグは首を緩く横に振ると、 振り下ろされた切っ先を躱しながら一際大きく後ろに下がる。
「騎士としての誇りと、国民に対する威厳を保つ為に、だったっけなぁ」
 統制という名の強者による弱者の弾圧。そんな自分の本来の姿が垣間見えてしまう前に、 彼等の戦意を喪失させるには、少し脅してみせるのが手っ取り早い。
 リーグはそのまま壁を背にする場所まで下がると、 つま先で軽く地面を叩きマントの下で剣に両手をかけた。
「一応先に謝っとくけど、うっかり骨が折れちゃったりしても許せよな」
 口端だけを上げるように笑みを浮かべ、指先が触れていた剣の宝玉と柄を強く握り直すと、 そのままゆっくりと鞘口を緩めた。

 小さな音が両手の下で一度だけ響く。

「……!!」
 その瞬間、今まで感じた事のないような異質な気配と、 総毛立つような感覚がリーグの全身を駆け巡る。 その感覚に反射的に銀の弧を描きながら、音も立てずに抜き去った剣を向けたのは自分のすぐ真横。 鋭く睨みつけた翠の光に、一人の女の姿が映る。
 肩で揃えた緋色の髪を、緩やかに吹く風に揺らして、薄く微笑を浮かべたその姿は、 一瞬自分が今ここで何をしていたのか、忘れてしまいそうになる程の穏やかさを浮かべる。 だがさっき感じた異質な気配は未だ消えずに、リーグは安堵と困惑の入り交じった表情で瞬きを繰り返した。
「お前は……」
「ちょっと後ろ、後ろ!」
 疑問の言葉を続けようとするリーグの様子に、穏やかな表情を驚きの表情へと変えた女は、 慌ててリーグの肩の向こうを指差す。
 その声に弾かれるように後ろを振り向いたリーグは、 視界の端に映った男の姿に低く身を沈め、高く振り上げられたその腕の下をくぐり抜ける。 そして振り上げられたまま目標を見失った切っ先が、さっきまでリーグが居た場所―― 今は女が一人立っている場所に、惰性で振り下ろされようとするその前に、 リーグはすり抜けながら踏み込んだ半身を捻って、無防備に晒された男の背中に強く肘を打ち込み、 その身体を強く地面に叩き落とした。
「そんな所に突っ立ってないで早く逃げろ!」
 音を立てて倒れ込んだ男の背中を飛び越えてから、 鋭く叫んだリーグの強い声に、女は目を見開き驚いた表情を見せる。 そしてそのまま、まるで信じられないものを目の当たりにしたかのように、呆然と立ち尽くす女の様子に、 リーグは僅かに眉をひそめると、苛立つ感情を抑え込むように息を吐いてから、もう一度静かに声をかけた。
「巻き添え喰らって怪我する前に、俺から離れろって言ってる」
 そう言いながらリーグは女を背後に庇うようにして、 にじり寄る男達と向き合い眉をひそめると、身体を覆うマントを肩に跳ね上げ剣を構えた。
「え……もしかして私の事助けてくれたりしたわけ?」
「当然だろ」
「……ふふっ」
 即答を返したリーグの言葉に、思わず苦笑を漏らした女の様子に、 リーグは肩越しに怪訝そうな視線を向けると、女はその明るい栗色の瞳を細めた。
「優しいのねぇ、そういう『ヒト』、私は好きよ」
 そう言いながら女はリーグの瞳の前に差し出すように右手を伸ばし、 一際明るく笑ってみせた。

「でも、もし助けた相手が敵だったらどうする ?」

 次の瞬間、聞き取れない言葉を紡いだ女の唇の動きに合わせて、 伸ばされた指先から放たれた(ように見えた)冷たい風の刃は鋭い風切音を立て飛び、 リーグの背後で大きな物音を立てた。 一瞬の出来事に身構える事も出来ずに、僅かに身体をずらしただけのリーグの頬には薄く赤い線が滲む。
「貴様……」
 この近距離で直撃しなかったのは、威嚇の為かそれとも揶揄っただけなのか。 どちらにせよその言葉の通りだろう、と鋭く睨みつけたリーグの視線に肩をすくめた女は、 大袈裟に首を横に振ってから、差し伸べていた手を下ろして腕を組むと、大きくため息をついた。
「ああもう無駄に避けたりするから、ちょっと当たっちゃったじゃないの」
「揶揄ってるつもりか」
「そうじゃなくてー。ほらまた後ろ、危ないって」
 背後から近づく複数の気配を感じつつも、リーグは目の前の女から視線を外す事はできなかった。 憤る数人の男達よりも、このたった一人の女の方が遥かに脅威的な存在である事は、 短いやり取りで十分すぎる程感じていた。
 リーグは片手で握っていた剣の柄を、両手できつく握りしめると、 足の裏で地面の砂利を擦るように間合いを取る。 そんなリーグの様子に女は呆れたようなため息をつくと、 腕を組んだままの姿勢で人差し指だけを立ててみせた。 その仕草に眉をひそめ表情を険しくしたリーグは、剣を構えるようにして女に切っ先を向けると、 苦笑しながら女は僅かに立てた指先を動かした。

 今度は風を斬る音は聞こえなかった。
 だがリーグの背後から男達の動揺する声と、 何かが崩れるような大きな物音が聞こえると、髪を揺らす風が首筋から緩く頬を撫でながら、 目の前に立つ女の方へと風が吹き抜けて行く。
 風に揺れたマントが静かに身体に寄り添う頃、背中に感じていた殺気に畏怖が混じっている事に、 今、自分の背後で何が起きたのか想像はできずとも、振り返らなくても予想はできたリーグは、 ずっと視線を外す事のなかった栗色の瞳に、その翠色の瞳を細める。
「これは……なんの真似だ?」
「そうねぇ、あんたの方は人数足りないみたいだから、ちょっと手伝ってあげようかなーって」
「なぜだ? お前は一体何者だ?」
 眉をひそめたまま困惑を隠せないリーグの表情に、肩をすくめて笑ってみせた女は、 再び吹いた風をまるでその身に纏うようにして、緋色の髪を緩く靡かせた。
「言ったでしょ? 優しい『ヒト』は好きよって」

「『精霊』ってのは、風みたいに気まぐれなのよ」


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