逢月の緑
「精霊……だと?」
思いがけない女の言葉に眉をひそめたリーグに、
女はどこか誇らし気な表情で腰に手を当てて笑みを浮かべてみせた。
精霊と古に契約を交わしたのはエルフ族だけ。
契約の名の下に彼等は精霊の持つ様々な力を得、不可視な存在である精霊の姿を目で捉える事もできた。
それはエルフ族だけに許された特権。ただの人間にすぎないリーグには、
その姿が見えるはずはなかったし、フェトーとヴィルダが連れているはずの精霊達でさえも、
ここまで一緒に居てその力の片鱗は垣間見る事はあれ、その姿を見た事は一度もなかった。
この状況で何の冗談だ、と思いながらも、さっきの風の動きを思い出すと、
リーグは目の前の女の様子を確かめるようにして目を細めた。
見た目はエルフ族ではなさそうだが、人間にしては醸し出す雰囲気が少し違う気がした。
この気配はつい最近どこかで感じたような気がして、思考を巡らせると、
記憶の片隅に長い銀髪の後ろ姿が浮かび上がる。
「なるほどそういう事か」
エルフの血を少しでも引いているのなら、精霊を使役する事も不可能ではないのかもしれない。
そして自分が禁忌の血を引いている事を隠しているのなら、
精霊の力を誤摩化す為の嘘をつく事も。
「ねぇ、考え事は後にした方がいいんじゃない?」
一人納得した素振りのリーグに、女は少し呆れた様子で声をかけると、
リーグから少し離れた場所に下がりながら、その指先を足元に向けた。
「大丈夫、なるべく目立たないように適当に足止めしてあげるから」
その言葉に肩をすくめると、リーグは女に背を向けて剣を持ち直した。
「んじゃまぁ、いっちょ地味に頼むぜ」
鈍い音と呻き声が聞こえ、滑り落ちた剣は石畳の上で大きく固い音を響かせる。
同時に最後の一人の男が落ちるように片膝をつくと、
固唾を呑むようにして取り囲んでいた人々の間から、賞讃の声が沸き上った。
すっかり戦意を失い、口々に悪態をつくだけの男達の様子を見下ろしてから、
リーグは肩で大きく一つ息を吐いて視線を周囲に向けると、
ざわめく人垣の向こうに街の警備兵らしき姿をみつけて、慌てて剣を鞘に納めた。
たとえこの街は通過地点にすぎなくとも、これ以上目立つ行為は好ましくない。
そう思いながらリーグは深く被り直したフードとくすんだ色のマントの襟元を押えると、
取り囲む人々の間をかき分けるようにしてなんとか抜け出し、足早にその場を後にした。
それから細い路地を幾度も曲がりどれくらい進んだのか。
人気のない薄暗い路地でその足を止めたリーグは、呼吸を整えるように一つため息をつくと、
たった今曲がってきたばかりの路地の角の方へ、肩越しに振り返るようにして視線を向けた。
「で、お前はいつまでついてくるんだよ?」
「……あら、ばれてた?」
苦笑するような声と共に、路地の角から顔を覗かせたのは、緋色の髪と明るい栗色の瞳。
リーグは向けていた視線を一度だけ伏せると、
被っていたフードを外して乱れた前髪をかきあげるようにしながら、ゆっくりと後ろを振り返った。
明るい路地の入り口から姿を見せ、まるで舞うような軽い足取りで路地の奥へと進んで来た女は、
黙って佇むリーグから少し離れた場所で足を止めると、
薄暗い影の中で光る翠の瞳に視線を合わせ微笑みを浮かべた。
「良く気付いたわね」
「そりゃずっとついて来られたら嫌でも気付く。
でもちょうど良かった。さっきは一応助けてもらったんだし礼を言わないとって思ってたんだ」
「あら、そんなもの必要ないわよ」
片手と首を軽く横に振りながら、肩をすくめて笑い返す女の様子に、
リーグもつられるようにして表情を緩めると、
溜めていた息を吐き出すようにしてから辺りを見回す。
「お前はそうかもしれないけど、お前が契約している精霊にも世話になったんだし」
『契約』という言葉に女は僅かに眉をひそめると、辺りを見回しているリーグを眺め、
訝しむように首を傾げて声色を落とした。
「契約? あたしにはそんなのはないわよ」
「そりゃ、契約があるのは精霊の方だろ?……ちぇっ、やっぱ見えないなぁ」
リーグは暫くの間視線を辺りに彷徨わせていたが、
諦めたように首を横に振ると苦笑を漏らした。
そしてその様子を黙って見つめる女の視線に気付くと、
リーグは瞬きをするように一度だけ目を伏せてから、
静かに開いた瞳の色に深い翠色を浮かべ、それっきり視線を彷徨わせるのをやめた。
リーグには人には見えない者、精霊を探す術を持っていなかった。
ただフェトーとヴィルダと共に行動するようになってから、
彼等の契約する精霊達を始めとする、その力の片鱗だけは良く目にするようになっていた。
見えないのに気配だけ感じる。
確かな存在であるはずなのに、不確かな存在としか感じられない。
存在を否定するつもりは全くないのに、
自分のしている行為はその存在を否定する行為である事を、
リーグは今までも何度か悔いてきたが、最近は特にそれを痛感するようになっていた。
だからといってムキになって、人には見る事のできない者達を探す行為は、
きっと周りから見たら随分滑稽に見えている事だろうと思いながら、
リーグは女の方に向き直ると、自嘲に似た笑みを誤摩化すように笑ってみせた。
「さっきから何探してんのよ? 精霊ならここに居るじゃない」
「あのなぁ、そんな嘘、子供でも騙されないぜ」
そう笑いながら頭の後ろで両手を組んだリーグは、空を見上げるようにして顔を上に向けると、
薄暗く細い路地を作り上げる高い壁の上、細く切り取られるように見える空の眩しさに目を細めた。
「なによ、信じてないの?」
「信じるも何も」
「さっきあれだけ見せたじゃない」
「そりゃぁ俺には精霊は見えないし、自分がやってるようになんて簡単に見せられるだろう?
大丈夫、俺は禁忌とか全然気にしないから」
そう言いながら笑ってみせるリーグに、女は何かを言いかけてから口を噤む。
そして大袈裟にため息をついてから首を横に振った。
「……ったく思い込みが激しいのは同じね」
ぶつぶつと独り言のように呟いた言葉を聞き取れなかったリーグが、
怪訝そうに首を傾げるのを眺めると、女はもう一度首を横に振って苦笑を返した。
それはまるでこれ以上の説明は無意味だと諦めたようなその素振りに、リーグは僅かに眉をひそめると、
顔を背けるようにして横を向いた。
「じゃあもし仮に、お前が本当に精霊だとしてだ。なんで人間の俺を助けたんだ?」
精霊はエルフだけと契約を成す。
その契約には対価を必要とし、それぞれが対価を得る事で、
精霊はエルフに『力』という対価を貸し、エルフは精霊に『生』という対価を与える。
だが精霊が望む対価は人間は持たない。
そしてそんな人間に力を貸した所で、なんの意味もない事は精霊ならば知っているはず。
「もし何か別に理由があるのなら……その、なんだ、助けてくれたのはなんていうか……」
少し遠慮がちにリーグが呟いた言葉の最後は曖昧に途切れる。
多くの人々がリーグに求めるのは、いつも権力にまとわりつく助力にすぎなかった。
だが権力とは無縁であるはずの精霊が求めるもの。エルフに望む『生』とは違う対価に代わるもの。
もし何か別の理由があるのなら、それが人でもエルフでもそれが精霊相手でも、
自分という存在に別の理由があると言うのなら、リーグはそれを知りたいと思った。
その言葉を黙って聞いていた女は、口元に小さく笑みを浮かべると、
まるで言い聞かせるような穏やかな声で答えた。
「だから言ったでしょ、あんたが優しい人だったからって」
「……ははっ。それじゃ全然理由になってないだろ」
その答えをリーグは鼻で笑い飛ばしながら肩をすくめると、
背けたままの顔を女の方に戻して、その翠の視線を真っ直ぐ栗色の瞳へ向けた。
「別に遠慮しないで本当の事言ってくれてもいいんだけどな」
そう言いながらリーグはマントの下で腰に手を添えていた。
その指先には腰から下げた剣の鞘と、紋章の刻まれた騎士の証が触れていた。
王都に居る時、リーグの周りには若い剣士や老騎士や、貴族やその娘達など、
絶えず誰かが傍に居た。周りから見ればさぞ人望が厚いようにも見えていただろう。
だが彼等が傍に居るのは個人としてのリーグの周りではなく、
権力の飾りとしての存在、彼等の利権を得る為の繋ぎとしてのリーグの周りに過ぎなかった。
だがそう扱われるのをリーグが苦痛に思っていたのは、もはや遠い昔の記憶。
今更嘘をついたり気を遣われなくとも傷つく事はなかった。――正確にはやめてしまっていた。
そんな事を知ってか知らずか、女は再び怪訝そうな表情を浮かべる。
「本当の事って何よ? あたしはただ人が集まって何をしてるのかしらってちょっと覗いたら、
うっかりあんたに助けられちゃったから、精霊としては対価を返さないとまずいかなって思っただけよ」
そう言いながら女はゆっくりと前に足を踏み出し、その栗色の瞳を細める。
「納得できないなら証拠を見せてもいいけどね。でもそれで納得したらあんたはどうするの?」
「どうするって言われても……」
「そうよねぇ。だってあんたは『ただの人間』だしね」
その言葉に弾かれるように顔を上げ絶句したリーグは、
いつの間にか目の前まで来て顔を見上げていた女の顔を見下ろした。
精霊にとって必要なのは対等な対価を持つエルフだけ。どんなに人間が望んだとしても、
そして尽くしたとしても、その願いが彼等に届く事はない。
たとえこの地に君臨する覇者であろうと、貧困に喘ぐ弱者であろうと、
彼等にとってはすべて同じ『ただの人間』に過ぎない。
『お前は普通の人とは違う』そう言われ続け、そうある事を望む人達に囲まれ、
それが当たり前だと思っていた。それでも普通であろうと願ってもいた。
そんな感情を抱いてリーグはいつも一人揺れ動いていた。
そんな心をまるで見透かしたかのように、女は目を細めて口元に微笑みを浮かべると、
もう一歩リーグに近づいてから、小声で囁くように呟いた。
「結局あんたは自分にどんな価値があるのか知りたいだけでしょ?」
絶句したままのリーグに女は微笑んだまま手を伸ばし、その頬を緩く撫でるようにしてから、
そのまま整えられた指先で首筋を掠めて、両腕を首の後ろに回した。
「馬鹿ねぇ、精霊<あたし達>に損得なんて意味ないわよ」
まるで金縛りにあったかのように身動きする事もできず、
息が触れる距離で見つめる瞳に、リーグは呆然と視線を合わせると、
見上げるその瞳の虹彩が人のそれとは違う事に気付いた。
それは細く縦に長い、まるで猫の目のような瞳の輝き。
「お前は……本当に……?」
「やっと信じる気になった?」
苦笑しながら見上げるその栗色の瞳の奥は深く、まるで引き込まれるような錯覚を覚えて、
リーグは思わず息を呑むと、辛うじてその瞳から視線を逸らした。
触れている場所から苦笑する様子だけが伝わってくる。
それは確かな存在感をして、人間の身では決して見る事も、
触れる事も出来ないと信じていた精霊像とは大きく異なる事実に、
リーグの中で再び疑いの感情が大きく浮かび上がる。
だが今ここに居るのは、間違いなく人間でもエルフでもない別の存在であるのは、揺るぎない事実。
精霊には対価が必要。エルフは精霊達に『生』を与える、
では人間は彼等に何を与えればいいというのか。
「俺は何をすればいいんだ?」
「……何もしなくていいわよ。あんたは生きて、そして真実をちゃんと見ていてくれたら」
鼻先をくすぐる緋色の髪と、耳元で囁かれた言葉にリーグは目を見開くと、
その意味を問おうとして手を動かそうとしたその瞬間、
女の姿は掻き消え一陣の風がマントを揺らして行く。
身体の自由が戻ったリーグは、慌てて風の吹き抜けた方を振り返って辺りを見回してみたが、
そこにはただ薄暗い路地が細く続くだけで、人影も気配もすっかり消えていた。
「夢……な訳ないか……」
リーグは首筋に手をやると、小さく自嘲の笑みを漏らした。
そこにはまるで不確かな存在を刻み込むような、薄く一筋の赤い爪痕だけが残っていた。
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