逢月の緑

 リーグが街から戻って来たのと、フェトーが聖地から戻って来たのはさほど時間は違わなかった。
 部屋の窓辺にもたれるようにしながら、少し遅れて戻ってきたフェトーの見せる労りの表情と、出迎えるヴィルダの安堵の表情。 それは特に変わった様子はない、すっかり見慣れたいつもと同じ表情と光景。 それぞれの感情が滲むその光景を暫く眺めていたリーグは、 小さくため息をつくと空の一番高い所で輝く日射しを見上げて目を細めた。
 ヴィルダと出会ったその日から、一度も戻る事のなかったと言う聖地にフェトーが何故戻る気になったのか、 結局その真意をリーグは推し量る事はできなかった。 だがこうして何も変わっていないいつもの光景を目の当たりにして、 夕べのヴィルダの様子を思い出すと、リーグも一人小さく安堵に似たため息をついてから、口元を緩めるようにして笑みを浮かべみせた。
 だがそんなリーグの心境を知ってか知らずか、不意にフェトーはリーグの方へ向き直るとその表情を険しく歪めた。
「それで、お前は一体何をしていた?」
「帰ってくるなり何だよ、怖ぇーなぁ 」
 まるで詰め寄るように近づいて来たフェトーの声色は、殺気さえ感じさせる程に低く響き、 リーグはおもわず身構えるような仕草をして肩をすくめてみせる。 だがそんな様子にも顔色を変える事もなく、ただ真っ直ぐと向けられる鋭い視線に、 リーグはそのまま続けようとした軽口を呑み込むように口を噤んだ。
「ほんと何にもしてないって」
 フェトーの突然の苛立ちの原因に皆目見当がつかないリーグは、 『実はさっきまでちょっと街で乱闘してました』などとは口が裂けても言えないと思いながら、 引きつった笑顔を顔に貼付けて笑ってみせた。 フェトーはそんな様子を黙って暫くみつめていたが、やがて険しい表情のままその視線をリーグの後ろの方へと向ける。
「では聞くが、お前の後ろに居るのは一体なんだ?」
「は? 後ろ?」
 その言葉に驚いたように後ろを振り返ったリーグは、 自分の真後ろの壁にもたれ掛かるようにして立っていた見覚えのある緋色の髪に目を見開く。 その人物の明るい栗色の瞳は驚くリーグの顔を見上げると、満面の笑みを浮かべながら両手を振った。
「あはははっ、どんかーん」
「うわっ、お前なんで?」
「『うわっ』とは何よ! 人をお化けみたいに!」
 さっきまでの笑顔から一転、眉をひそめて憮然とした表情でリーグを睨んでいるのは、 ついさっき吹き抜けた風と共に路地から掻き消えた女の姿。 リーグはおもわず自分の首筋に手をやると、指先が触れた傷跡に顔を顰めてから、 もう一度その姿に視線を向けた。
「だってお前さっき……」
「さっき? 挨拶して先に帰っただけじゃない」
「挨拶? なんだよあれは挨拶だったのかよ?」
「そうよ。やだぁなんか別の期待でもしちゃってたの?」
 からかい混じりに答える女の楽し気な様子とは裏腹に、リーグはそのまま言葉を失い呆気にとられたように立ち尽くす。 そんな二人のやり取りを険しい表情のままで見つめていたフェトーは、 女に視線を向けたままでリーグの真横に立つと声を潜めて口を開いた。
「お前はいつの間に精霊と知り合いになった?」
 凍える程に冷ややかな声に我に返ったリーグは、はっきり『精霊』だと言ったその言葉に気付くと、 驚いたように隣に立つフェトーの顔を見上げて疑問の言葉を投げかけた。
「い、今なんて言った? こいつは本当に精霊なのか?」
「なんだお前はこいつが精霊だと知らずに一緒に居たのか?」
「知らないも何も、精霊なんて見た事ないし」
 フェトーの言葉に僅かな苛立を滲ませてから、リーグは改めて女の方を眺めると、 眉をひそめながら首を傾げて、やがて吐き出すようにため息をついた。
「だってほら、精霊ってのは普通人間<俺達>には見えないものだろう?  存在すら信じてない奴が居るくらいなんだぜ? でもお前がそう言うって事は、そうなのか……」
「ちょっと何よ、あたしの時はさんざん疑っといて、このエルフの言う事はあっさり信じる訳?」
 リーグの言葉に女は指を突き出しながら抗議の声をあげる。 その声におもわず肩をすくめながら弁明の言葉を並べているリーグの様子に、 フェトーはため息をついて小さく首を振ると、答えを問う相手を女の方へと変えた。
「お前の契約主はどこだ?」
 その落ち着いた声に、滑らかに嫌味と愚痴を並べたてるのをやめた女は、 目を細めてからゆっくりと視線をフェトーへと移すと、口元に薄く笑みを浮かべてから肩をすくめた。
「怖い顔してやーねぇ。契約主なんてものは居ないわよ」
 そう言いながらフェトーとは反対側のリーグの隣へと移動すると、 リーグの片腕を絡め取り自分の方へと引き寄せる。
「この人が気に入ったからついて来ちゃっただけよ」
 そう言いながらそのまま女はリーグの首に腕を回して抱きつく。 それを拒絶しないのかできないのか、ただ狼狽するだけのリーグの様子にフェトーは眉をひそめて首を振ると、 聞き取れないような小さな声で短く言葉を呟いた。
 不意にどこからともなく水滴が水面に落ちるような音が一つ響き、やがて部屋の中央の空間が波紋のように揺らめきはじめる。 波紋の中からまるで滲むように浮かびあがってきた人影は、やがて蒼い髪の青年の姿を形作り、 もう一度水音が部屋に微かに響くと、青年は閉じていた瞼を開き漆黒の瞳に光を宿した。
「お呼びでしょ……」
「うわぁっ! び、びっくりさせんなよ」
 驚きの声を思わず上げたリーグ声に、青年は肩をすくめると、 眉をひそめているフェトーに苦笑まじりに頭を下げてから、リーグの方へと向き直る。
「驚かせて申し訳ございません。こうしてお目にかかるのは初めてでしたね」
 そう言いながら笑みを浮かべてみせる青年の言葉に、リーグは怪訝そうな表情をみせる。 その様子に目を細めた青年は、緩く腕を組んで片手を顎にあてながら苦笑を漏らした。
「もっとも私としてはずっと一緒に居たつもりなので、あまり初めましてと言いにくいのですが」
 その言葉に更に眉をひそめたリーグは、やがて何かに気がついたように目を見開いた。
「さっきの登場の仕方といい……もしかしてお前はフェトーの契約精霊なのか?」
「ご明察のとおり。主フェトーの契約精霊のバルドルと申します、以後お見知りおきを」
 そう言いながらバルドルは片手を胸にあて恭しく頭を下げる。 その姿はまるで王都で権力に跪く者達に似て、リーグは僅かに眉をひそめると、 視線を逸らしながら曖昧な返事だけを返した。
「挨拶は後にしろ」
 苛立の滲むその声色にバルドルは頭を下げたままの姿勢で視線だけを上げると、 フェトーに視線で促された先、リーグの隣に立っている女に方へと視線を向けてから顔を上げた。
「やたらにぎやかだと思ったら『ヴィリ』貴女でしたか。こんな所で一体何をやってるんですか?」
「あらぁ見てわかんないの? 『全知の精霊』の名が泣くわよ」
「その馬鹿げた名で呼ばないで頂きたいと、何度も言っているでしょう」
「ふーんだ、わざとに決まっているじゃないの」
 抗議の言葉を鼻で笑い飛ばしてから、『ヴィリ』と呼ばれた女は、 リーグの身体の影に隠れると肩越しにバルドルに向かって顰め面をして見せ、 その姿にバルドルは首を横に振りながら苦笑を漏らした。
 その光景は嫌っている者同士がいがみ合っているというよりもむしろ、 気心知れた者同士のふざけたやりとりのような気がして、 リーグは二人の間に何度か視線を渡してから、目の前のバルドルに視線を留めた。
「なんだ、お前ら知り合いなのか?」
「知り合いと言えばそうですね。精霊ってのは誰でも互いの事を知っている、でも自分の事は何も知らない。 そういう風にできているんですよ」
 その説明にフェトーは小さく頷きリーグは怪訝な表情を見せる。 それぞれの異なる反応にバルドルは再び苦笑を漏らすと、リーグの肩越しに顔を覗かせているヴィリの方へと視線を移した。
「それで? 貴女がここに居る理由は大方見当が付きますが。それを何故説明しないんですか?」
「そんなのめんどくさいからに決まっているじゃない。ちょうどいいわあんたから説明してよ」
「何故私が?」
「あんたの方が要点を選んで人間にもわかりやすーく説明できるでしょ」
 バルドルはやれやれと一つ大きなため息をついてから、リーグの顔を一瞥するとフェトーの方へと向き直った。
「では、お聞きになりたい事は何でしょうか?」
「お聞きになりたい事っていきなり言われても……とりあえずなんでお前達が俺の目の前に居るのかその説明からしてくれよ」
 その言葉にバルドルは怪訝そうに首を傾げてから、ふと何かに気付いたように手を打つと苦笑する。
「ああそうですね、まずはそこからご説明しましょうか。えっと確か『人間は神霊石がなければ精霊の姿を見る事はできない』んでしたっけ?」
「そうだよ、それなのになんでお前達精霊が俺に見えているんだよ」
「なに、簡単な事ですよ」
 首を傾げるリーグの様子に、バルドルはその翠の双眸を静かに見つめる。
「『ボルに愛でられし翡翠が見つけた神の存在』このお話はご存知ですよね?」
 不意に呟かれた言葉に、リーグの表情が僅かに険しくなる。 それに気付いたのか気付かなかったのか、バルドルは僅かに目を細めるとそのまま言葉を続けた。
「『翡翠』とは『とある人間』の事であり、『神』は我々『精霊』の事を指していると教えられてませんか?」
「……ああ、みんなそう言ってるな」
「残念ながら翡翠ってのはその人間の事じゃないんです。正確には神という精霊の方もですけどね」
 肩をすくめて首を横に振るバルドルの様子に、リーグは言葉の続きを待つようにしてただ黙ってバルドルの顔を見つめていた。 その真っ直ぐ向けられる翠の視線に緩く笑顔を返したバルドルは、いつの間にかリーグの後ろから離れて、 窓にもたれながらこちらを見ているヴィリに一度だけ視線を向け、すぐに戻した。
「そもそもこの世界で『精霊』と呼ばれる存在は、ここではない別の刻の狭間から引き寄せられた『意識』の事を指しています。 しかしその意識のほとんどは『こちら側』では非常に不安定で、 意識を保ったまま姿を形作る為には、どうしても『媒体』が必要になるんです」
「媒体? それが『翡翠』の意味だって事か?」
「ええ、『翡翠』とは貴方方人間が神霊石と呼ぶ物質の中でも、最も高純度の素材であり、 『媒体の代わり』として非常に優秀な物の一つです」
 そう言いながらバルドルは壁際で黙って目を伏せている自分の主に視線を向け緩く微笑むと、 その隣で二人の様子をみつめているヴィルダにも同じように微笑んでみせてから、 再びリーグの方へと向き直った。
「我々の世界とこの世界という二つの平行世界で、 それぞれの姿を見つけ出し観測する事によってその存在を知覚する。それが『契約』という行為。 しかし人間のほとんどは我々の姿を見つける事ができない。 なぜなら我々はエルフよりもむしろ人間に近い存在なんです。 だからこそ、まるで反発し合うように別の方向を向いてしまい知覚する事ができずにいる。 それを媒体を使い同じ物を見る事で互いの存在に気付き、 互いの姿を観察する事で、その姿がその場に『在』とわかるようにすることで、ようやくお互いの存在を目で見て確かめる事ができるようになるんですよ」
 まるで話の半分も理解できない、といった様子で、ただ眉をひそめているリーグの様子に、 バルドルは眉を僅かに上げて肩をすくめると、何か思案しているような素振りを見せてから口を開いた。
「極端に端折った話にしてしまうと、そうですねぇ…… 『媒体』を利用して人間と精霊は『契約』ではなく『約束』をしたと思っていただけたら」
「ちょ、ちょっとちょっと。それはずいぶんな手抜きじゃないの?」
「おやそうですか? 今はこれくらいで十分だと思うんですが」
 思わずという素振りで声をあげたヴィリの言葉にバルドルは苦笑を返すと、 神妙な面持ちで話に耳を傾けていたリーグが、腕を組み何度も首を捻る姿に視線を向ける。 同じようにリーグに視線を向けたヴィリは、そんなリーグの様子に深くため息をついて肩をすくめた。
「うーん難しいな……ほとんど意味がわからない」
 諦めたように首を横に振るリーグの言葉に、バルドルは微笑みを返すと、 立っていた場所からゆっくりと足を前へと進めた。
「これだけで理解されたら正直驚きますよ。 まぁ条件さえ満たせば人間だって精霊<私達>が見えるって、今はそう思っていて下されば結構です」
「条件? それはなんなんだ?」
 理解の糸口をみつけようと、まるで縋るように投げかけられた疑問の言葉に、 バルドルは再びヴィリの方に視線を向けてから、 リーグのすぐ目の前に立って自分よりも少し背の高いその顔を見上げると、 その漆黒の瞳を細めて薄く笑みを浮かべた。

「なに、簡単なことですよ」


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