逢月の緑

 「簡単な事」
 そう言って笑ってみせたバルドルに、リーグは怪訝そうに首を傾げ眉をひそめると、言葉の続きを促すようにバルドルの漆黒の瞳を見下ろす。
 その瞳はまるで何も映していないかのように、暗くどこまでも深い。そんな風に見えてしまうのは、彼等が自分たちとは違う存在であるからこその違和感と、心の奥底で抱いている恐怖の具現化であるという事は考えるまでもなく、リーグは目を伏せ緩く頭を振ると、もう一度今度は睨みつけるようにしてバルドルの顔を見下ろした。
 その様子をバルドルはただ薄く微笑みを浮かべて見上げていたが、やがて目を細めて肩をすくめると、ゆっくりと左手を差し出してからその手を自分の耳元に当て、短くそろえた蒼い髪の下、耳元で揺れる金色の耳飾りを指で弾いた。二本の細い金色のプレートが、揺れて鈴やかな音を立てる。
「これですよ、これ」
「これって、お前の耳飾りがなんなんだよ?」
「そうではなくてて、貴方も持っているでしょう?」
 その言葉にリーグはバルドルの真似をするように同じ仕草をしてみる。そして左手の指先に触れた固い感触に、驚いた様子でバルドルの方へ視線を向けた。
「まさかこれが神霊石だっていうのか?」
「ええ、そうですよ。知らずにつけていたんですか?」
 肩をすくめるバルドルの様子に、リーグは短く瞬きをして答えると、もう一度、まるで存在を確かめるようにして自分の左耳に触れた。

 そこにあるのは密やかに、だが確かな光を放つ一粒の小さな緋色の結晶だった。
 この結晶をリーグが手に入れたのはいまだ遠くない記憶。そしてこれを手に入れ身につけた理由は、希望と憎悪の矛盾した感情をひとり静かに抑え込む為だった。
 いつもはただそこで密やかに光り輝くだけのものであり、自分の存在を見せつけるだけの道具にすぎなかった。だが交錯する感情が滞り行き場を失う度、その緋色は血を流すようにどこまでも深くなり、感情に気が付かないふりをする度、細く貫いた傷みが静かに体の奥で疼くような気がして、滾るような感情に苛まれそうな身体と心を抑え込んでくれていた。
 いつだったか、意思を持っているんじゃないかと考え恐れた事もあった。しかし、また別のものを手に入れればいいだけの事と思いながらも、結局ずっと手放す事はできずにいたものだった。
 ずっと自分の傍にある特別な存在であるから、と感じていたのは、ただそのもの自身が持つ力にすぎなかったという事。そしてそれは誰の感情にも左右される事のない、それ自身が持つ本来の姿であったという事実に、リーグは小さくため息をつく。
「なんだ、そうだったのか……」
 自嘲に似た笑みを浮かべたリーグは、静かにその手を滑り落とす。リーグの表情からそんな思考に気が付いたのか、バルドルはその様子に目を細めると、静かに言葉を続けた。
「でも、神霊石が在るだけじゃ意味はありません。持っているだけでいいのなら、誰だっていいって事になってしまいますからね」
 その言葉に顔を上げたリーグは、瞬きを繰り返してから再び手を耳元に添える。指先に触れたその結晶が、さっきよりも熱を持っているような気がして、リーグは僅かに眉をひそめた。
「貴方達人間が私達精霊の力を借りようとする時、一体何をなさいますか?」
「何って……神霊石持って言霊を唱える事か?」
「それだけですか?」
「あれ、他に何かあったっけ?」
 リーグは思考を巡らせるようにして、暫く視線を彷徨わせていたが、やがて大きくため息をつくと、「思い出せない」と肩をすくめながら苦笑する。リーグの答えに納得するかのように何度か頷いたバルドルの耳元で、金色の耳飾りが小さく音を立てた。
「難しく考え過ぎですよ、ただ『力を貸してほしい』と願っているんじゃないんですか?」
「あーそういう事かよ」
「『そういう事』が一番大事なんですよ。さっきも言いましたが、私達はここではない別の世界の時の狭間に在るだけの、実体を持たないただの『意識』にすぎないのですから」
 その言葉に思わず目を見開いたリーグは、目の前に居る存在は誰かに求められ呼ばれない限り、けして触れられる存在ではない事、そして意識には意識を持ってして接するしかない事に気づき、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「意識に込められた思いと望まれた願い、その大きさに比例して神霊石と呼ばれる欠片は力を取り戻す。そして欠片に寄り添う儚い意識達も同じように、願いを欠片に望み遥か遠い昔へと思いを募らせている。願い寄り添う人と意識達の思いの深さ。それが全ての源であり、この世界に存在する為の理由。その全てを満たしてようやく、人と精霊は互いを知る事ができるのですから」
 そう言って笑ってみせるバルドルの言葉を、神妙な面持ちで俯き聞いていたリーグは、やがて吐き出すようなため息をついてから顔を上げる。
「よくわからないけどさ、要するに互いが会いたいと願う気持ちが強ければいいって事か?」
「そうですね、今はそれで十分ですよ」
「はぁ、『今は』かよ……」
 今一つ納得がいかない素振りで、リーグは前髪をかきあげるようにしながら眉をひそめると、 窓辺に視線を向けてから小さく首を振る。
「ま、確かに違う気はするかな、あの時俺は、精霊に会いたいと願った覚えはないし」
 リーグが視線を向ける窓辺では、ヴィリはヴィルダと一緒になにやら話をしながら、 ずっと背中を向けたままでいた。 その後ろ姿を眺めながら呟いたリーグの言葉に、 バルドルは僅かに片方の眉を上げ、リーグと同じように窓辺に視線を向ける。 まるでその視線に声をかけられたかのように振り返ったヴィリは、 リーグとバルドルの顔を順番に眺めてから肩をすくめて「どうぞ」と笑ってみせる。
「ん? なんだよ」
「ええ、実はですね、貴方はもう一つ持っているんですよ」
「もう一つ?」
 その言葉に瞬きを返してから、改めて自分の身の周りを確かめるリーグの様子を、バルドルは暫く黙って眺めていた。だがリーグがその『もう一つ』を見つけられない様子に肩をすくめると、ゆっくりとその指先で示したものは、リーグの腰に下げられた長剣だった。

 それはかつてアインヘルヤル家の屋敷の廊下の片隅で、飾刀として長い時を過ごしてきた剣だった。古き時代より伝えられて来たものだと教えられていたが、豪華な調度品に囲まれた広い屋敷の中では、それは特に目立つ訳でもなく、いつの頃から在ったのかを知る者は居なかった。
 幼い頃、リーグはその古びた剣を戯れに手に取り、抜き身の刀身を光に翳した事があった。長く使い手のなかった刃はただ白く曇り光を映す事もなく、ただ柄に埋め込まれた緋色の宝玉だけが、酷く不釣り合いな輝きを放っていた事だけ覚えていた。
 その後リーグが再びその剣を手にする事はなく時は過ぎ、存在すら忘れかけていたある日の事、騎士として剣を身に纏う者となったリーグは、不意に瞼の裏に鮮明に蘇った緋色の光に導かれるようにして、再びその剣の前に立っていた。それはあの日と同じように酷く不釣り合いな緋色の光だけを放ち、朽ちる事もなく静かに長い年月を刻んだ姿をしてそこに在った。
 緋色の宝玉は何も語らぬ虚飾にだけ彩られたこの世界の苛立ちと絶望と、そしてその世界に在るだけの自分の姿を映しているような気がして、再びその剣を窓から差し込む細い陽の光に晒した。それ以来その剣の宝玉は、いつの時も傍でこの世界とリーグを映し続けて来た。

「なんだ、この石もそうだったのか」
「いいえ違います」
 即座に返された否定の言葉に、リーグは目を見開くと、その視線が留まる先を辿り、輝く緋色の宝玉の光に瞬きをしてから顔を上げる。
「じゃあなにが?」
「その剣ですよ。その存在そのものが我らにとって至高の――」
「ちょっと待て!」
 まるで言葉の続きを遮るかのように、フェトーの声が部屋に響く。まるで焦燥さえ感じさせるようなその声色に、驚き振り向いたリーグの目に映るフェトーは、その瞳を金色に染め表情を強張らせていた。
「バルドル。まさかお前はこいつの剣が『ソナス』だと言うんじゃないだろうな?」
「いいえ『ソナス』ではありませんよ」
 ゆっくりと首を横に振りながら、バルドルはフェトーに緩く微笑みを向けた。
「これは『ソナス』ではなく、『クラウ=ソナス』ですから」
「なっ……」
 微笑みを浮かべたままの表情で、冷たく突き放つようにも聞こえるバルドルの言葉と、呻くように表情を強張らせるフェトーの様子はあまりに対照的で、リーグは狼狽しながら腰の剣を見下ろすと、酷薄な笑みを浮かべるバルドルに詰め寄った。
「え、ちょっとおい、どうしたんだよ? 一体この剣がなんなんだよ?」
「『クラウ=ソナス』と言うのは、その剣が持つ本来の名前の事です。そうですね、例えばこんな言い伝えがあるんですよ」
 そう言ってバルドルは一度言葉を区切ると、口を噤んでしまったフェトーの方に一度だけ視線を向けてから、ゆっくりと言葉の続きを口にする。
「『クラウ=ソナス。それは太古の遺産か神の失せ物か、その存在の地を知る者はなく、その力の存在を知る者もない。その全てを知りうる者は、クラウ=ソナスに選ばれし者、彼の地に認められし者』」
「『そしてその力を振るう者と、全ては再び彼の地に還る』――が抜けているわよ」
 窓辺から聞こえてきたヴィリの言葉に緩く目を伏せ苦笑を漏らしたバルドルは、小さく肩をすくめてから呆気に取られたかのように立ちすくむリーグの顔を見上げた。
「と、いう事ですよ」
「……は?」
「おや、わかりませんか? 一から説明しないと駄目ですか」
「ったり前だろ、お前らと一緒にすんな。説明ならもっとわかりやすくしろ」
 そう言って口を尖らせるリーグの様子に、やれやれと肩をすくめたバルドルは、肩を振るわせて笑いを噛み殺しているヴィリに恨めしそうな視線を向けると、「なるほどたしかにこれは面倒ですね」と苦笑した。
「いいですか、エルフ族が扱う事のできる道具の中に『ソナス』という過去の遺産と呼ばれる道具があります。『ソナス』の持つ力はとても神秘的で、闇に光をもたらしたり、病や魔を封じる事ができたりもします。しかしその力を扱える使い手は『ソナス』によって選ばれ、万が一選ばれぬ者がその力を使おうとすれば、たちまちその力は失われ、時の彼方に還ってしまうため、現存するものは少ないのです」
 そう言いながらバルドルはフェトーの方に視線を向けると、フェトーは黙って腕を組みながら横を向く。その腰元で小さく鞘と刃が触れる音が聞こえた。
「え、もしかしてあれがそうなのか?」
「ええ、我が主が持っている物が『ソナス』ですよ」
 へぇ、と呟きながらリーグはフェトーの方に視線を向けると、まるで追い払うような仕草をされるのに肩をすくめ、リーグはバルドルの方へと視線を戻した。
「そしてその『ソナス』の中でも最も力の強いものと言われているのが『クラウ=ソナス』。しかしその『クラウ=ソナス』の存在は、全て伝承の中でしか語られてこなかったものであり、実際そんなものが存在するのかすらわからないとされていました」
「それが、俺の持っているこの剣が『クラウ=ソナス』だって言うのか?」
「ええ、ただ貴方がその力を使えている訳ではありません。しかし貴方の傍から還る事なく存在し続けているという事実は紛れもない。それは貴方が人間であるからこそなのか、それとも……」
 腕組みして思案するように首を傾げたバルドルは、そう言いながらリーグの目の前まで歩み寄ると、自分よりも少しだけ背の高い翠の瞳を見上げて目を細めた。
「一度試してみましょうか?」
「試すって、なにを?」
「貴方にその器があるのかどうかですよ」
 唇を薄く開いて小さく笑ったバルドルは、両手を伸ばしてリーグの頬に触れてから、そのまま首に両腕を絡め、黒の瞳で翠の瞳を見つめる。その吸い込まれそうな暗く深い漆黒に、リーグは思わず息を呑むとうわずった声をあげた
「ちょっ……お、おい?」
「何、心配いりませんよ、すぐに終わらせますから」
 耳元で囁くような呟きと、首筋に触れる息遣いにリーグは瞬きを繰り返す。バルドルはただの意識として実体のない者として、誰かに求められるまではけして触れられるはずのない存在。だが今こうして触れている身体は、人のそれとなんら変わりなく熱を帯び息づいていた。
 リーグは停滞していく思考を呼び醒すようにして、何度か小さく首を振っていたが、やがて暗い闇色の瞳に引き摺られていくように視線を落す。

――全てを受け入れ我がモノとなれ――
――そしてその力を我に――

 どこからともなく聞こえてきた声は誰の声なのか、ただその声に堕ちてはならないと、まるで足掻くようにリーグは僅かに指先を動かすと、耳元で鈍く痛みが走る。

「へぇぇぇ、あんたにそういう趣味あるとはねぇぇぇ」
「……っ!? うわっ、はっ離れろっ!」
 不意に間近で聞こえたヴィリの声に、混濁した思考の闇から引き戻されたリーグは、目を見開くと絡み付くバルドルの身体を突き放すようにして引きはがす。そんな様子にバルドルは一瞬表情を歪めてから吹き出した。
「ぷっ、あっははは。すみません冗談ですよ冗談」
 そう言って笑うバルドルの肩越しに、眉間を押えてため息をつくフェトーと、呆気にとられているヴィルダと、笑い転げるヴィリの様子を順番に眺めながら、混乱したままリーグはただ呆然とする。
「へ……冗談って……?」
「あんたは思いっきりからかわれたのよ。この性悪精霊にね」
「性悪とは酷いですね。あ、でももしリーグさんに本当にそういう趣味がおありでしたら大変申し訳ないのですが、私にはその気はありませんのでお断りしておきます」
「ば……ふざけんなっ! 誰がそんなっ!」
 慌てて首を横に振りながら、怒りと屈辱と羞恥に肩を震わせるリーグの様子にひとしきり笑ったバルドルは、不意にその顔から笑みを掻き消すと、リーグに冷たく暗い瞳を向けた。
「とりあえず一つだけ忠告しておきますよ。精霊<私達>には簡単に気を許さない方がいい」

――死にたくないのなら、最後まで必ず――


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