逢月の緑

 緋い月は空に高く、蒼い月は地に眠り、漆黒の闇より零れ落ちた月明かりは、曖昧で茫洋とした輝きを放ちながら、世界とその影に紅いゆらめきを纏わせる。

 宿の屋上に設けられたテラスの手すりで腕を組み、弄ぶように指先で触れていた左耳の結晶から手を離したリーグは、その手を手すりから滑り落とすようにして大きくため息をついた。
「結局なんだったんだよ」
 ため息混じりに呟きながら、リーグは力なく下げた手でそのまま剣の鞘に触れる。
 バルドルによる昼間のひと騒動のその後、結局説明は有耶無耶なまま終わってしまった。結果的にリーグが理解できた事は、自分の持っている「クラウ=ソナス」と彼等が呼ぶ剣は、精霊やエルフにとってはかなり貴重で大事なものであるという事だけ。しかしそれがなぜイーダリルのアインヘルヤルの屋敷に在ったのか、そして不適合者には扱えないはずのモノが、なぜ自分の手元にあるのか、このまま持っていてもいいものなのか、それともいけないのか。 そして本当は一番聞きたかった事。何故ただの人間にすぎない自分の目の前に精霊が現れたのか。
 どれ一つ聞けなかった事に、リーグが何度目かのため息をついたその瞬間、異質な気配を背中に感じたリーグは、剣を抜きながら鋭く後ろを振り向いた。
 だが緋色の月明かりに光る切っ先が突きつけたのは何もない漆黒の暗闇。 その光景にリーグは眉をひそめると、 次の瞬間さっきまで眺めていた暗闇を、 振り返りながら鋭い銀の弧を描き切り裂く。刃に反射した月明かりが緋色を纏い鮮やかに煌めくと、 暗闇は微かに揺らめくように震えた。
「もー危ないわねぇ、いきなり何するのよ」
 刃が切り裂き滲んだ暗闇の少し上。リーグの視線よりも少し高い位置から聞こえたヴィリの声に、憮然とした表情で顔を上げるリーグの目の前に、ヴィリは腕を組むようにしながらゆっくりと降りてきた。
 さっきまでテラスの手すりに腕を組み、空を眺めていたリーグの目の前に広がるのは、ただ暗闇が漂うだけの空間。そこにまるで見えない足場があるかのようにして立つヴィリの姿に、リーグは吐き出すような息を吐くと、構えた剣はそのままで片方の手で左の耳に指先で触れた。
「……お前ってやっぱり精霊なんだな」
「何よまだ疑っていたわけ?」
「いや疑っている訳じゃない。お前の精霊らしい姿を今はじめて見たからな」
 そう言いながら剣の切っ先を降ろしたリーグの顔を、首を傾げるようにしながら覗き込んだヴィリは肩をすくめてから、どこか楽しそうな声を上げる。
「なぁにもしかして落ち込んでるの? あたしが慰めてあげよっか?」
「精霊には気を許すなと脅されたばかりなんだけど?」
「あんな性悪の言う事なんて放っとけばいいのよ」
 そう言いながらヴィリはリーグの頭の上を舞うようにして通り越し、テラスの上へと音もなく降り立った。その様子にリーグは何かを振り払うかのようにして首を横に振ると、剣を鞘に納めてから振り返り、手すりに背中を預けるようにしてもたれかかった。
「なぁ、ちゃんと説明してくれないか?」
「説明って何をよ」
「さっきの話の続きでいい、でも今度は冗談なしで頼む」
「はいはい」
 そう言ってからさっきの光景を思い出したのか、口元に手を当てて笑いを噛み殺しているヴィリの様子に、リーグは一つ鼻を鳴らして目をそらすと、腰に下げた剣の鞘に触れてから顔を上げる。
「これ……「クラウ=ソナス」だったっけ? 結局これは何なんだよ?」
「それは説明した通りよ」
「それが正直全く理解できなかったから聞いているんだけど」
「理解できなかったって言われてもねぇ」
 そう言って肩をすくめて首を横に振るヴィリの様子に、リーグは眉をひそめてから目を伏せると、説明と呼ぶにはあまりに理解出来なかった、バルドルの言葉とその意味を思い出すように口にする。
「太古の遺産? 古の伝承? 選ばれた者? 器だかとかそうじゃないとか、それには一体何の意味が在る? そしてたとえ意味を持っていたとしても、剣を手にしているのがただの人間だから、器として相応しくないから…… いや、俺だから駄目だって事なのか?」
 次々と言葉を吐き出すようにして一気にまくしたてると、リーグはヴィリの顔を睨みつけてそのまま返事を待つように口を噤んでしまった。その翠の瞳をヴィリは静かに見上げていたが、やがて口を開いた。
「悪いわね、あんたの望む答えは私は持ってないわ。ただ、バルドルがあんたの事を確かめたかったっていうのは嘘じゃないわ」
 そう言いながら緩く笑ったヴィリの様子に、リーグは深くため息をつくと、小さく「そうか」と呟いて目を伏せた。沈黙が訪れる闇の中で、緋色の月明かりが暗い影を縁取り、冷えた大気は熱を奪い冷めていく。

 どれくらいの時間黙り込んでいたのか、もう一度吐き出すように息を吐いたリーグは、ヴィリに背を向けさっきまでそうしていたように視線を暗闇に泳がせた。
 見下ろす夜深い街の通りには人気もなく、息を潜めた町は明かりも少ない。昨日までこの世界には人とエルフが、同じ場所で同じ時を過ごし、そして同じように生きて、そして死んでいくと思っていた。だが精霊達もまた同じように、こうして同じ場所で同じ時を過ごし、同じように生きている。では今まで信じてきたものは、一体何が偽りで何が真実だというのか。
「なぁもしかして、人間でも……」
「うーん、残念だけど、それはないわね」

 それは気の遠くなる程に遠い昔から連綿と続いて来た生命の理。この世界が成り立つ為の規律でありバランス。そのバランスが崩れる時、人が「神」と呼ぶ存在は、一体何を欲するのか。望まれなかった未来はどんな終焉を迎える事になるのか、きっと誰にもわからない。

 苦笑混じりに否定の言葉を告げるヴィリの声を背中に聞いて、リーグは自嘲に似た笑みを浮かべると、重く澱んだ思考を振り払うようにして首を振り、もう一度ヴィリの方へと振り返った。
「別に俺は力なんかいらないんだけどな。そんな力を手に入れたとしてなんになる?」
「あらあら、それはまた王都を護る騎士様らしくない言葉ね」
 ヴィリは小さく肩をすくめてから、互いの手の届く距離まで歩を進める。
「別に、使いこなせなかったらそれまでの事じゃない」
「使いこなせなかったらって?」
「あんたがその剣を手にしてから、今まで何もなかったのなら、今まで通りのままなだけよ。……ただ、周りが今のままである事を許さないのかもしれないけど」
 最後の言葉に一瞬緩んだリーグの表情が再び歪む様子を見あげると、ヴィリは薄く笑みを浮かべる。
「実はね、それが「クラウ=ソナス」である事は、私達の間ではほとんどの連中が知っているような有名な話なのよ。でも『あれはクラウ=ソナスなのか?』と、誰かに問われるまでは誰も答える事はないけどね」
「それって……」
 その言葉の意味に気付いたリーグは険しく眉をひそめる。全ての精霊が知っている。そしてたった一言その存在の在処を問う者が居るだけで、その所在は白日の下に晒される。それはまるで無造作に机の上におかれた鍵のない箱の中身を尋ねるだけのような、とても単純な事。ただその箱の存在に、今まで気付く者が居なかっただけの事。問うのは誰なのか、いつなのか。敵なのか味方なのか。

 考え込むリーグの様子に、その口元に人差し指を当てヴィリは苦笑すると、そのままリーグの首筋に手を伸ばし、昼間、自分が残した爪痕を指先で緩くなぞった。
「ま、あんたは人間だから、みんな使いこなせないだろうって思ってるけど」
「人間で悪かったな」
 眉をひそめて首筋に伸ばされた手を振り払ったリーグが顔を背けるのに、ヴィリは振り払われた手を、そのまま剣の柄に埋め込まれた緋色の宝玉へと翳した。
「あら、むしろ好都合じゃない。別に力は欲しくないんでしょ?」
 その言葉にリーグは緩く瞬きをしてから、剣に視線を落とすヴィリと剣を順番に見下ろすと、深くため息をついた。
「お前はどうしたいんだ?」
「どうもしないわよ。でもそうねぇ、どうせ暇だししばらくあんたと一緒に行こうかしら」
 そう言って笑うヴィリの声に、リーグは黙って剣の鞘を紐解いた。
「それはコレがここにあるからだろ? 欲しいんならやるよ」
「あら、そんな事言っちゃっていいの?」
「俺が持ってても役に立てそうもないしな」
 苦笑を漏らして剣を差し出すリーグの様子に、ヴィリはしばらくリーグの顔を眺めていたが、やがて目を細めて緩く笑ってから、リーグの耳元へ唇を寄せる。そして僅かな振動のような言葉を残して暗紅色の闇に姿を溶かした。

「もちろん欲しくなったら「返して」もらうわよ。……そうね、その時はあんたも一緒に、だけどね」


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