蒼月の揺

 まるで見上げた視界を遮るように聳え立つ聖地の山並みは、足下に短い影を落とす日差しに輝き、蒼穹に雪白の境界を鋭く描く。晴れ渡る空の下、往き交う人々と商人達の客を引く声で賑わう大通りを歩きながら、山から吹き下ろす冷たい風に翻ったマントの裾を引き寄せてリーグは後ろを振り返る。しかしそこに居るはずの姿がないのに、そのまま視線を上げると、目深に被ったフードを両手で押さえながら、店先の商品を覗き込むように眺めている姿に、苦笑しながら引き返してその顔を覗き込んだ。
「それじゃよく見えないだろ?」
「ごめんなさい、また寄り道しちゃって」
 リーグの言葉に驚いたように顔を上げたヴィルダは、すぐに辺りを気にするようにしてフードの端を引き下げた。二人でこの通りを歩き始めてから、こうして「寄り道」をした回数はもう片手では足りなくなっていた。はじめは不意にヴィルダの姿が見当たらなくなる事に、驚いていたリーグだったが、何度も同じ事を繰り返えされるうち、諦めの感情しか沸いてこない事に、ふとフェトーの顔を思い出して苦笑をかみ殺すようにして肩を震わせる。
「どうした? 何か気に入ったものでもあったのか」
 そう言いながらリーグはヴィルダの覗き込んでいた露天の店先を同じようにして覗き込む。店先にはおそらく旅人向けの土産物らしい繊細な硝子や銀細工が並び、どれもが日の光を受けて煌めいていた。綺麗なものや可愛らしいものに興味を示すその様子は、ヴィルダくらいの年頃の女性なら当然の反応だろう。そう思いながら熱心なその横顔を見つめてリーグは口元に笑みを浮かべる。
「もっとお近くでご覧になってはいかがですか?」
 そんな二人に店主は愛想良く笑いながら、ヴィルダに向けて商品の一つを差し出して来た。しかし不意に目の前に身を乗り出してきた店主にヴィルダは思わず後ずさると、小さく首を横に振りながらまるで逃げるようにしてリーグの背中に隠れた。その様子に唖然とした表情を見せた店主に苦笑を返したリーグは、そのままの姿勢で後ろに隠れたヴィルダに声をかけた。
「何か欲しいものあるんなら買ってもいいよ」
「ううん、何もいらない」
 小さく聞こえてきた返事にリーグは肩をすくめてから、店主に軽く手を振り店先から離れ歩き出す。そしてすぐ後ろに寄り添うようについてくるヴィルダが、一体どんな顔をしているのかを想像しながら通りを見回した。ちょうど空から降り注ぐ暖かな光が、空の一番高いところへと差し掛かる時間。この町一番の大通りを行き交う者の数は少なくない。彼等の多くはほとんどがこの町に住む者や旅人、いわゆる「人」ではあるが、時折エルフらしき姿も見かける。しかしこの町を見下ろす山にある聖地ノーアトーンに住まうハイエルフの多くは、人との関わりを好ましいものとせず、町に降りてくる事はほとんどなく、そしてこの町の人間達も、聖地のハイエルフとは交流を持とうとはしていなかった。この町を訪れるエルフの多くは遠い地より旅をしてきた者達。故に町の住人にとってエルフという存在は、関わる必要のない者達か通り過ぎていくだけの者達にすぎなかった。
 それは良くも悪くも互いに関心を持たないという事。
 だがそれがこの町で穏やかに暮らして行く為の暗黙の決まり事となっていた。一見穏やかに見える町において、全く違う考えを持つ二つの種族が隣り合わせてもそれを成し得る為に必要な事。それは互いが持つしきたりや偏見から目を逸らし続け、何が起きても見てみぬ振りをするという事。些細な出来事が諍いの火種となりかねない紙一重の均衡は同時に「異端」に対する厳しさを意味している。むろんそれはこの町だけの事ではない。
 人里から遠く離れた森の奥で、そしてフェトーという絶対的な庇護の元で、この世界が持つ危うい均衡を知らずに過ごしていた日々は、いかに穏やかな日々であったのか、ヴィルダは外の世界に触れた今になって強く実感しているはず、そして同時に自分がその異端の最たる存在であるという事も。
 しかしさっきから見ているヴィルダの行動からは、まるで不安や恐怖は感じられなかった。それは素直な感情から来ている好奇心であり、それを満たす喜びで負の感情を忘れられていたのだろう。ただそれは裏を返せば周りが見えていないという事でもある。今の自分が周りからどんな風に見られているのか、それがわかっていないという事は幸せなのかもしれないが、時にそれは酷く自身を傷つける。リーグは高い空で輝く日の光を見上げて眉を潜めながら目を細めると、さしあたってはこの状況を直すところからと、フードの端を両手で押さえて俯くヴィルダに声をかけた。
「それ、返って目立つからやめたほうがいい」
「でも、もし誰かに見られたら」
「大丈夫だって」
 そう言いながらリーグはヴィルダのフードの端に手を伸ばすと、拒絶の言葉を呟きながら、その手から逃げるように後ずさる様子に、リーグは大きくため息をついた。
「なぁ、フェトーが言ってた事の意味はわかってる?」
 この町では特に人目を避けて然るべきヴィルダが、何故一番人の多い時間に町に出ているのか、それはフェトーが発した言葉のせいだった。

 

* * *
 

「ちょっと町に行ってきてくれないか」
「私が?」
「リーグを荷物持ちで連れて行け」
「え、でも」
 それっきり互いの口から続く言葉は途絶えてしまった。戸惑いの表情を見せ押し黙るヴィルダと、そんなヴィルダには目もくれず、一人窓際の椅子に座ったまま荷物の整理を続けるフェトーの様子に、寝台の端に寝転がって話を聞いていたリーグはやれやれと深くため息をつくと、上半身を起こして二人の方へと向き直った。
「何か必要な物があるんなら俺だけで行ってくるぜ?」
「いや、お前だけじゃ意味がない」
「なんだよヴィルダじゃなきゃ駄目な理由でもあるのかよ?」
 そんな不満と訝みの混じったリーグの声にようやくフェトーは手を止めると、ヴィルダの方へ一度だけ視線を向けてから窓の外の町の様子を見下ろした。窓の下では通りを行き交う町の人の波が、時間と共に増え始めた旅人達と入り混じり、活気をあふれさせ始める頃だった。
「ヴィルダにはもう少し人の町の雰囲気というものに慣れてもらう必要がある」
「なんだ、思ったよりもまともな答えだな」
 そう言いながら意外そうな顔をするリーグにフェトーは一瞬眉をひそめると、俯いたままのヴィルダに声をかけて、窓から外を眺めるように促した。
「イーダリルはここよりも大きな町だ。この町をすぎればこの先これだけ人とエルフが行き交うような大きな町はない。だからその前に少しでも人前に出られるようにしておいた方がいいだろう」
 人前という言葉に一瞬肩を震わせたヴィルダは、それでも小さく頷いて窓の下の通りを見下ろす。この町に着いたのは人通りも少なくなった日が暮れてからの事。それからヴィルダは部屋から出る事もほとんどなくこの部屋で過ごしていた。森を出てから今日まで続いてきた旅の途中、ヴィルダが人と接する事があったとしても相手は多くても二、三人程度の事だった。その時ヴィルダの隣には常にフェトーやリーグ、時には実体化したバルドルやヴィリの姿もあり、自分たちよりも相手の数が多い事は一度としてなかった。
 それは過保護というよりも厳戒態勢に近い。
 リーグが持つクラウ=ソナスのように、何気なく過ごしていれば誰にも気付かれる事のない事を、返って目立たせている事になっているのかもしれないという事は、すこし前からリーグもなんとなく感じていた。ならばなるべく自然に振る舞えるように、とフェトーが望む気持ちもわからないではないが、理由はそれだけじゃないのだろう。リーグは二人の後ろ姿を眺めると、その窓の向こうに見える山並みに眉をひそめてから、寝台の端から立ち上がるとすぐ横に立て掛けてあったマントと剣に手を伸ばす。
「確かにこれは必要だな。でもそういうのはイーダリルに着いてからゆっくりやればいい事じゃないか?」
 非難めいた口調のリーグに冷たい視線を向けてから、フェトーはヴィルダの顔を見上げると、もう一度を念を押すようにして言葉を重ねた。
「何事も早い方がいい、わかるな?」
「……わかった」
 俯いたまま小さく呟いたヴィルダは緩慢な動きで身支度を整える。リーグはマントとフードを深く被ったその姿を先に部屋から出してから、扉の前で一息つくようにしてから窓際で外を眺めているフェトーを睨みつけた。

「お前、これは少しあからさますぎるぞ」
 
 その言葉に返事はなかった。

* * *
 


 通りを歩き続けたリーグとヴィルダの二人は、やがて人通りの多い通りから離れ町のはずれの高台へと辿り着く。ヴィルダは周りに人気のないのを確かめてから、目深に被っていたフードを外し、山から吹き下ろす風を浴びるようにして目を閉じる。
「風が冷たくて気持ちいいね」
「人ごみってのは空気もあまり良くないしなぁ」
 そう言いながらリーグも伸びをするようにして両手を伸ばすと町を見下ろした。視線の先には町並みと人が行き交う通りが小さく見える。風に乱された髪を手で押さえながら、町へと視線を移し暫く見下ろしていたヴィルダは小さくため息をつくと、視線を遠く草原の向こうに移した。その草原の先は今はまだ見えない首都イーダリルのある方角。
「イーダリルってここよりももっと大きい町なんだよね?」
「ああ、人ももっとたくさん居るよ」
「そっか」
 その言葉に再びため息をついたヴィルダは、風に舞うマントの裾を掻き合わせるように掴みながら自分の体を抱く。吹き抜けた風は外したフードの下の銀髪を踊らせ、碧と銀の瞳は静かに草原の向こうを見つめていた。
「フェトーの言う通りだよね。森の外に出るのなら、どうしてもたくさんの人と話さなきゃいけないもの」
「確かにそうだけどさ、急にうまく話すのは無理だし、焦んなくても大丈夫だって」
「そうだね、あれじゃ駄目だよね」
 リーグの言葉に小さく笑顔を返したヴィルダは、そのまま口を噤んで黙り込んでしまった。リーグはさっきまでの町でのヴィルダ様子を思い出し、この場合は一体何を言ったらいいのか、励ますべきか慰めるべきなのか、何かうまい言葉を探すように腕を組み首を捻っていた。と、不意にリーグに向き直ったヴィルダは、そう言えば、と口を開く。
「イーダリルに着いたら、リーグはどうするの?」
「どうするもなにも俺は家にーー」
 帰るだけ、と言いかけてリーグは口を噤んだ。国境警備の隊列を独断で離れた事、仲間を危険な目に遭わせた事、森を脱出してからすぐにイーダリルに戻らなかった事、報告の一つもしないでこうしてのんびりと旅をしている事。どれ一つを取っても厳罰物の所業。思えば少し前から気づいていた事にどこか気が緩んでいたのだろうが、それでもなぜそんな重大な事を失念していたのか、今更のごとく気付いて頭を抱えこんだリーグの様子に、ヴィルダは不安げな様子で顔を覗きこんでくる。
「大丈夫?」
「ああ、たぶん大丈夫、だと思う。というか思いたい」
 引きつった笑顔を見せるリーグを怪訝そうな顔でみつめるヴィルダに、リーグはもう一度笑顔を作ってみせる。
「まぁ多少の事は「見逃してもらえる」と思うし」
 そう笑いながら答えてしまった自分の言葉に、リーグは思わず眉をひそめた。取り繕う事もなくとっさに出てきてしまったその言葉は、自分の深層に潜むもの、そしてそれに縋り付く自分の姿を晒してしまったようで、リーグはヴィルダに視線をむけると、緩く瞬きをしてから苦笑する。
「そっかリーグは大丈夫なんだ。私は大丈夫なのかな」
 そんな笑みに気付いたのか気付かないのか、独り言のように小さく呟いたヴィルダの声に、不意に前からずっと聞いてみたかった事を思い出したリーグは、俯いたヴィルダの様子を暫くみつめると、少し思案してから思い切って口を開いた。
「ヴィルダはさ、人が嫌いなのか?」
 そのリーグの言葉にヴィルダは顔を上げると、見つめるリーグの視線に再び視線を落として、そのままゆっくりと首を横に振る。
「みんな何も知らなければとても優しいから。でも私が普通じゃないって知られたら……」
 呟く声は次第に小さくなり言葉の最後は風の音に掻き消され聞こえなかった。しかしその言葉は確かにリーグの耳に届いていた。
「怖い」
 怖いのは知られてしまう事。本当は優しいはずの人々がエルフ達が、恐ろしい言葉を投げつけ傷つける者へと豹変してしまうのは、すべて自分が「普通」ではない事を知られてしまうから。
「私は「普通」じゃないから」
 普通ではないから生きていてはいけない。普通ではないから同じように振る舞ってはいけない。そんな事を一体誰が決めたのか。いつの間にそうなってしまったのか。ぽつりと呟いたヴィルダの言葉に、リーグは風で乱れる髪を掻き上げながら視線を向ける。そして微かに口元に笑みを浮かべると、ゆっくりと一度だけ瞬きをしてから口を開いた。
「じゃあさ、実は俺も「普通」じゃないんだよって言ったらヴィルダはどう思う?」
 驚く表情で見つめるヴィルダに、リーグは目を細めてから空を見上げた。

「「普通」ってさ、よくわかんないよな」


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